喫茶店哀歌
僕は珈琲が好きだ。一般的な意味で、マニアではないけれど。今でも豆にこだわって、たまに豆の種類で注文できる店で珈琲を飲む。ブルマンとかキリマンとかの略語を理解できる人は多分同世代。「ラテ」と聞いてイライラするならもう間違いなし。
さて、そんな僕がスタバとかドトールとかに行くことはほとんど無い。理由は主に二つ。まずメニューに妙なバリエーションが多く、煩雑すぎること。そもそもこれらは「珈琲飲料」であって、「珈琲」ではないというのが僕の解釈だ。今は亡き志村けんが初老のサラリーマンを演じ、こういった店で注文に四苦八苦するコントがあったが、現実味がありすぎて笑えなかった。彼は一杯の珈琲を飲みたいだけなのだ。仕舞いには哀愁さえ漂っていた。
往時の喫茶店では、むしろ飲み方のバリエーションを自分で楽しむのが通のやり方だった。例えば今日は砂糖を使おうかな、とか、ミルクを入れようかな、とか、砂糖とミルクを沈めておいて味変を楽しんだり、ミルクを浮かして先にまろやかさを楽しんだり。ミルクの注ぎ方一つでミルクを沈めたり浮かせたりすることができて、これが上手だとほんの少し尊敬されたりもした。要するに、運ばれてきた珈琲を自分でアレンジする楽しさがあった。そしてもう一つのこだわりが、珈琲カップ。
凝った体裁の喫茶店では、豆ごとにカップの柄が決まっていたり、一目でブランド品とわかるカップを使用していたりしたものだ。だから使いたいカップを考えて豆を選ぶ、なんていう楽しみ方もあった。そして何よりも大事なのが飲み口、つまりカップの縁の厚み。モノの本には理想的な厚みが記載されていたりするが、これは個人の好みに負うところが大きいと思っている。ちなみに僕は飲み口の薄いものを好む。
こうしたこだわりのある人が、チェーン店やコンビニでスチロールのカップに入った珈琲を注文するなんてことはまずあり得ない。厚みの問題以前に、その質感が許せない。紙コップもダメだ。仮に珈琲が美味しく入れられていたとしても、紙の匂いがして美味しいと感じられないからだ。一番腹が立つのは、あの蓋だ。小さな飲み口がついていて、そこから啜るようにできている。こぼさずに持ち歩くための工夫なのだろうが、あんなの珈琲の飲み方じゃない。プジョーのディーラーで1度、これで珈琲を出されたことがある。新形コロナ対策とかで、陶器のカップから切り替えたんだそうだ。面白がって試してみたが、やはりダメだ。何を呑んでいるのかよくわからない。仕方なく蓋を外して呑んだが、あの蓋はカップの縁の形状をキープする役割も果たしているらしく、スチロールのカップがフニャフニャ歪んで何とも心許なかった。
スタバやドトールでは陶器のカップも使っていると聞いたことがあるが、もちろん店内用。だからといって長居するのに居心地が良いとも思えない。客席の距離感が密すぎる。この距離感の問題を3番目の理由としても良いぐらいだ。
お気に入りの店で今日の気分に合わせた豆で注文し、今日の気分に合わせてアレンジしながらお気に入りのカップで珈琲を飲む。そしてそれを気兼ねなくできる適度な距離感。それが本来の喫茶店。悲しいことに、僕の住む地方都市では絶滅危惧種に等しい。だが店舗数が減ってきたことが幸いしてか、ノウハウに長けた店は現在も栄華を極めている。こうした現状を喜ぶべきか、悲しむべきか。難しいところだ。
今では市販の豆も質が向上し、それなりの味を家庭で楽しむことができる。しかしながら、あの喫茶店という「場所」の持つ雰囲気はやはり独特のものだ。家でくつろぎながら飲む珈琲も良いが、実のところ家で珈琲を飲むためだけに時間をつぶすことは逆に難しい。家は日常を過ごす場所だからだ。たまにはその「日常」を離れて特別な場所に赴き、人任せの時間を楽しむのも宜しかろう。