アメリカ従軍カメラマンの良心
「トランクの中の日本」という写真集をご存じだろうか。もし知らないなら、是非とも一度、現物を手に取ってみてほしい。
僕がこの初めてこの写真集を知ったのは、発売当時の、雑誌か何かに掲載された広告だったと思う。紹介されていた1枚の写真に強烈なインパクトを受けた。それは国民服を着た少年が、眠っているように見える赤ん坊を負ぶいヒモで背負ったまま「きをつけ」の姿勢をとっている写真だった。写真集が発表された後も、単独であちこちに掲載されたから、見たことがある人も多いだろう。撮影者はジョー・オダネルという若者。終戦直後に占領軍の一員として長崎県佐世保に上陸。軍のカメラマンとして戦後の日本を撮影するのが彼の任務だった。ご存じのように、長崎は原爆で壊滅的な被害を受けた直後だったので、その周辺はかなりの惨状だったという。
彼の仕事には厳しい禁止条項があって、後々米軍が非難されるきっかけとなるような、あるいは原爆投下という蛮行の証拠となるような写真を撮ってはいけないことになっていた。しかし、彼は撮影中に様々な人たち(日本人)と出会い、次第にその意識が変化していく。彼は仕事の枠を越えて、「人間として、ここで何が起こったのかを記録するべきだ」と考えるようになり、独断で写真を撮り続けた。帰国時には厳しい検閲があったので、問題となりそうなフィルムは未使用と偽って持ち出したそうだ。このようにして撮影されたうちの1枚が、あの少年の写真だった。あの写真は、後に「焼き場に立つ少年」と呼ばれるようになり、2017年にはローマ法王とのエピソードもあって、近年あらためて注目されるようになった。
この写真集が最初に発表されたのは1995年。なぜこれほど出版が遅れたのか、それには深いわけがある。撮影してはいけないものも写っているから、見つかれば写真がネガもろとも没収されてしまう恐れがあった。それは絶対に避けたい。そこで彼は、帰国してしばらくはネガもプリントも、トランクに入れて隠していたのである。そうして発表できる時期を思惑するうちに、長い年月が過ぎてしまったとのことだ。このことが、「トランクの中の日本」というタイトルの由来にもなった。実際にアメリカで写真展を行った際には、高い評価を受けた一方で「自国の恥部を暴くようなマネをした」という理由で彼を非国民呼ばわりする人たちも少なからずいたそうだ。だが、ジョー・オダネルの「全ての人々に見てほしい、あの時、何が起こっていたのか知ってほしい」という態度は揺るがなかった。
ジョー・オダネルはすでにこの世を去ったが、その数年前に幾度目かの来日をしている。その様子を追ったTV番組があって、その中で彼は思い出の地を訪れ、あの時出会った人々との再会を果たした。しかし、一番会いたかったあの少年に再会することはとうとうできなかった。あの時、あの少年は、亡くなった幼い弟の亡骸を背負い、臨時に設営された焼き場(といっても野火)で火葬の順番を待っていたのだ。下唇を噛みしめ、「きをつけ」の姿勢で微動だにしなかったそうだ。ジョー・オダネルは「声をかけてやりたかったが、そうすることで我慢している涙が堰を切ってあふれ出しかねず、それは彼の尊厳を台無しにしてしまう気がして、一言も声をかけられなかった」というような内容のことを書き残している。
他にも原爆の熱線に背中を焼かれた傷病者や、きちんとした服装をした老紳士(英語が堪能で、「写真でこの惨状を世界に訴えてほしい」と語ったそうだ)との出会いについて、写真に手記を添えて掲載しているので、その時の彼の感情の揺らぎが手に取るようにわかる。読んでいて涙がにじんでくる。そこには歴史の中で、けっして風化させてはいけない記録が詰まっている。
世界で唯一核兵器が使用され、多くの犠牲者を出した日本。しかし、政府はいまだに「核兵器禁止条約」を批准していない。ジョー・オダネルは2007年8月9日、85歳でこの世を去った。それは奇しくも、長崎の「原爆投下の日」であった。