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 スタインベックの「朝めし」

 高校の時の教科書にアメリカのノーベル賞作家、スタインベックの「朝めし」という短編小説が使われていた。「怒りの葡萄」で、資本主義経済に翻弄されるアメリカの小作農一家の苦難や力強く生きる姿を描いた作家だ。その内容から「コミー(コミュニスト=共産主義者)」と疑われたこともあったらしい。「怒りの葡萄」は映画化されているので見たことのある人も多いだろう。当時は経営者ばかりが金持ちになり、小作農などは虫けら同然に扱われることも多かったようだ。

   この「朝めし」という短編でも、そういった小作農というか、季節労働者が描かれている。舞台は多分、1930~40年代のアメリカ。こうした季節労働者は自分の土地を待たず、作物の収穫期に合わせてあちこちを移動しながら稼いでいた。ここに登場する一家もカリフォルニアの荒野にテントを張って寝泊まりしている。物語は主人公が過去を回想する形で綴られていて、「こうした小さな出来事が、思い出すたび私を幸せな、暖かい気持ちにしてくれるのだ」という文章で始まっている。  

 旅をしていた(らしい)主人公はある寒い日の夜明け前、朝食の準備をする竈(かまど)の赤い炎に惹かれて、暖をとるためにこのテントを訪れる。多分、作者自身の体験だろう。  

 若い娘が赤子に授乳しながら、せっせと朝めしの準備をしている。次々と起きてきたテントの住人たちは、主人公に朝めしを一緒に食べていかないかと勧める。焼きたてのパン、いれたてのコーヒー、そしてフライパンに溜まった油の中のベーコン。テントの主はここ何週間かの自分たちの働きぶりを自慢げに話す。「ここ12日間俺たちはうまいものを腹一杯食ってるんだ。」そして作業着(時代からしてジーンズだろう。)を新調したのだという。そこには、貧しいながらも、仕事をして金を稼いでいる人間のプライドが強く感じられる。

 食事が終わり、日が昇る頃、登場人物たちはそれぞれの旅を続けるために出発する。その時の登場人物たちの会話が印象的だ。

「朝食をありがとう。」                  「いや、こちらこそ。よく訪ねてくだすった。」       

この家族は、主人公より明らかに社会的地位の低い人たちだ。おそらく正しい言葉遣いもままならないはずだ。しかし惜しみなく食事を提供し、主人公を心から歓待している。  

 最後に作者はこう結んでいる。 「こうしたことが私を幸せな気分にしてくれる理由はわかっている。しかしそこには素晴らしい美の要素があった。」  

 ほんの5ページ足らずの話である。内容も、登場人物が質素な「朝めし」を食べるだけ。にもかかわらず、こうして何十年も読者の心の中に残り続ける作品とは、いったい何なのだろう。試しにネットで検索してみると、同じような感想がいくつかヒットした。高校の教科書で知ったという人も何人か見つかった。僕と同じような体験をした人がいることを知ると、なんだか嬉しい気がする。同世代の人が多く、その文章からは、決して激しくはないが、おき火のようなじわりと暖かい情熱を感じた。解釈を試みる人も多いが、僕は解釈よりも感じ取ったことを大事にしたい。別にどちらが正しいかという論争ではない。つまり、「作者が何を伝えようとしているか」ということより、僕自身が「この話から何を受け取ったか」が,僕にとっては重要なのだ。 

 僕がこの作品を読み終えて最初にやったことは、パンとベーコンを買いに行くことだった。何しろ作中の「朝めし」は、何かとてつもない高級料理のように思えるほどうまそうだったから。次に僕は、パンをあえて直火で焼き、ベーコンを作中にあるように、ベーコン自身から出た油に浸るまでカリカリに焼いて、その油にパンを浸しながら食べてみた。うまかった!ただ、作中に出てくるパンは竈で焼きたてのパンである。しかもホットビスケットのような堅めのパンらしい。おそらくその状況も含め、いろいろな意味でもっとうまかったに違いない。

 僕の持っている文庫本のページは陽に焼けて茶色になり、定価を見ると古い時代なのがわかる。しかし、それほどの時間がたった今でも、「朝めし」は僕の愛する短編の一つなのである。

スタインベック短編集(新潮文庫) 当時220円。