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 一味違う「潜水艦」映画

 「ハンター・キラー」という映画を初めて見た。「潜行せよ」なんて副題が付いていたので、B級くさいイメージだったのだが、これが大間違い。脚本もしっかりしていたし、カメラワークも一級品。俳優陣も渋くてかっこよくて、特に主役のジェラルド・バトラーが少し陰りを帯びているのが何とも・・・。この人って、ホワイトハウス二部作(と勝手に呼んでいる)のうちの、シリアスな方に出てた人だよね?

 正直、ストーリーは「こんなにうまくいくわけ無いじゃんか」みたいなところもあるんだが、描き方が上手いとそれが許せてしまうんだなあ。誰かがツイッターで「ダイ・ハード」になぞらえていたけど、確かにそんな感じもあった。ただし、こちらは笑うところは一切無し。アクションと心理戦でぐいぐい押してくる。ところで皆さん、他の潜水艦ものとして「クリムゾン・タイド」をあげていらっしゃるようだけど、「レッド・オクトーバーを追え!」はもう古いんですかね?あれもなかなか良かったですよ。特に、事が終わった後の敵国(と言っていいのかどうかわからんけど)同士の艦長たち(ショーン・コネリーとスコット・グレンもしくは同乗していたアナリストのアレック・ボールドウイン)が良い雰囲気で会話するところも似ていて、僕なんかはそっちがすぐに頭に浮かんだんだけど。ただ、最近の映画ばかり見ている若い世代には、CGの出来が物足りないかもしれない。

  話は戻って、この「ハンター・キラー」の新機軸は、陸軍(かな?)の特殊部隊による地上戦が絡んでいるところで、潜水艦という密室の中でアクションがこじんまりしそうなところを、派手な戦闘シーンでうまく補っている。そして双方にきちんと見せ場が用意されているので、飽きることなく最後まで一気に引っ張られた。その中で人間模様もちゃんと描いているし、特筆すべきは名脇役たるロシアの駆逐艦の扱いがとても上手で、久々に文句なしの映画を見た気がして、とても満足できた。

  ところで、潜水艦ものの戦争映画の古典に、「眼下の敵」というのがあるのを知っています?これは第2次世界大戦もの(1957年制作)で、アメリカの駆逐艦(長)とドイツのUボート(艦長)の心理戦を描いた秀作なんだけど、孤立無援の一騎打ちなんだよね。今でも潜水艦映画のベスト10には必ず入ってくる。この映画のなかで、老練のUボート艦長が、「今回の戦争は(第1次世界大戦と比べて機械化が進んだために)人間味のかけらもない」みたいなことを言うシーンがあって、「第2次世界大戦でもうすでにこれじゃあ,リアルタイムで中継すらできる現代の戦争はどうなってしまうんだろう」と思ったのを覚えている。だが主人公である二人の艦長は、クライマックスで見事に「人間味のある戦争」を見せてくれる。人間味があれば戦争しても良い、という意味ではない。戦争のなかでさえ人間味を失わない事の大事さを描いている、という意味だ。今の若い人が見てどう感じるかはわからないが、潜水艦映画に興味があったら、ぜひ一度見てみて欲しい。ラストシーンの会話がとても良い。

  知らない人もいると思うが、水中ではレーダーが使えないので、敵の位置を知るにはソナー(アクティブ・ソナー)を使う。ただし、これはこちらが出した音波(あの、コーンと響くやつですね)が反射して返ってくるのを聞いて相手の位置を特定するので、こちらの位置もわかってしまうから、むやみに使うことはできない。むしろ足の速い水上艦艇が優位な立場で使うことが多い。もうひとつの方法が「水中聴音機(パッシブソナー)」。潜水艦ものには、かならずヘッドホンをつけっぱなしの人が出てくるけど、あの人たちがソナーの係員ですね。要するに相手のスクリュー音とかを聞いて位置を割り出す方法。推進機関こそ今では原子力によるタービンエンジンなんてものが当たり前になっているし、海上自衛隊のようにいまだにディーゼルエンジン+バッテリー(モーター)でも、相当長い間潜行したままでられるようにかなりの進化を遂げているわけだが、この水中索敵能力だけはどうも新しい技術が開発されていなくて、洗練されてきてはいるものの、いまだに音に頼っているというのが何とも・・・。だから、よくあるでしょう、窮地に追い込まれて「期間停止!総員、音を立てるな!」というシーン。で、やらんでも良いことをやって手を滑らせ、何か落とすヤツが必ずいる。そこのお前!余計なことするな!もう一つ。ハンター・キラーでも出てくるが、近い距離で真後ろに付くと、前にいる潜水艦には気付かれない。これは、前の艦の機関音やスクリュー音に邪魔されて、後の艦の音が聞こえなくなるためらしい。追尾していて、離れたくなった時には機関停止すれば無音で離れることができる。ロシアの潜水艦は、追尾する艦がいないか確かめるために定期的に急旋回するんだそうだ。進路に角度差ができると相手の音をキャッチできるというわけだ(この操艦をクレイジー・イワンと言う)。さらに無線で連絡をとるにも、ある一定の深度まで上がらないと通信できないということで、水の中は思った以上に勝手が違うようだ。

 ちなみに、前記したように海上自衛隊の潜水艦はいまだに原子力は使用していないのだが、これはこれですごくメリットがあるらしい。第一に原子炉という熱源がないので、赤外線探知衛星に探知されにくい。第二に、原子炉の運転音がないので、機関を停止すると文字通りの無音潜行が可能になる。聞くところによると、アメリカの太平洋艦隊と模擬戦闘をした時に、海上自衛隊の潜水艦隊はその隠密性を生かして待ち伏せ攻撃をかけ、何回か全滅させたことがあるらしい。やるなあ、海上自衛隊。

レッド・オクトーバーを追え!
眼下の敵

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 ベスト・ムービー

 今まで見たなかでベストの映画は?と聞かれたら、迷わず「我が谷は緑なりき」と答える。古い映画で、モノクロ作品である。監督は今は亡きジョン・フォード。出演者で名前がすぐ出てくるのはウォルター・ピジョンとモーリン・オハラぐらいか。といっても、今の若い人には全くわからないだろうなあ。子役としてはのちによく見かけるようになるロディ・マクドウォール。大人になった彼が、73年の有名なホラー映画「ヘルハウス」の主人公の一人をやっていてびっくりしたことがある。

  ジョン・フォードといえば「男を描く西部劇」というイメージだが、この映画は、イギリスはウェールズの炭鉱の村が舞台。そこに住む一家族を中心にストーリーが展開する。そして「男」というよりは「父親」が主役か。母親は名脇役といったところ。言ってしまえば「そのへんの普通の人々」なのだ。 炭鉱で栄えていた頃のふるさとの記憶と、しだいに変わっていく人の心が錯綜し、それを末息子の目を通して語っている。家族の離散や母親の病気、父の死等、翻弄されながらも力強く生きていく姿が何とも美しい。ちなみに題名の「我が谷は緑なりき」とは、「今では人の心も、あのぼた山(捨てられた石炭がらの山)に黒く覆われたふるさとのようになってしまったが、あの頃はまだ、緑に覆われた美しい谷だったんだよ」という意味。

 いつも思うのだが、ジョン・フォードの映画は、モノクロなのに記憶のなかでは総天然色、ということがままあって、この映画でも森の緑や谷に咲く水仙の黄色がすごく印象的。ジョン・フォードには「荒野の決闘」という西部劇の大傑作があるが、ラストのいよいよ決闘の日の朝まだき、指定された場所に向かうワイアット・アープ(演じているのはヘンリー・フォンダ)をあおりで撮った、その背景の空の青さったら(いや、モノクロなんだけど)・・・! 忘れられないシーンのひとつですね。

  さて、話は戻って、じゃあこの映画の何がそんなに良いのか。それは・・・よくわからない。だがそれが良い。あのシーンが良かったとか、このセリフが良かったとか、それはいくらでもあげられるのだが、この映画の魅力はそういったこまごました美点を超越したところにあるような気がする。見終わった後に残る余韻とか、登場人物への共感とか、たとえると「一緒にあの村で成長したような感じ」とか。

   ある時、僕より10歳は若いアメリカ人(これがまたすごい人で、出身がハイチ、ばあちゃんはブードゥーのまじない師だったとか言っていた。彼も映画が大好きなので、よく二人で盛り上がっていた)に、思うところあってこの映画を見せてみたところ、数日してディスクが帰ってきた。そして「すごい!こんな映画があったなんて知らなかった!間違いなく僕にとってベストワンだと思う!」てなことを英語でまくし立てていた。やっぱり映画好きにはわかるのか。それまでの彼との話題はB級SFやホラー映画ばかりだったから、ちょっと嬉しかった。そういえばこれを見た日本人の知り合いも「見る前と後では世界が違って見える感じ」と、考えようによっては、ちょっと怖くなるようなことを言っていたっけ。

   僕は90年代以降の映画には物足りなさを感じている。こうした映画がなかなか現れてこないのだ。何かこう、物足りないというか、作り物くさいというか。そんな話を長女と話していて気がついた。そうか!文学だ!

 昔の映画には文学とイコールで繋げることのできる作品がたくさんあったのだ。実際、ベスト・ムービー文学の映画化なんてざらだった。もちろんそのその全てが成功したわけではないけれど。そういう観点で見ると、今の映画はいわゆる三文小説どまり、下手をするとパルプ小説やコミックスレベルのものまである。だから、スタインベックの「怒りの葡萄」なんかをジョン・フォードが映画化したりすると、ぜんぜん格の違う名作ができあがるのは当然と言えば当然だろう。勿論人間ドラマもしっかり描かれているので、例えば「我が谷は緑なりき」の主人公たちは十分人生のお手本になり得る。だが、「パイレーツ・オブ・カリビアン」のジャック・スパローは、当然人生のお手本にはならないのである。おわかり?

 日常の延長上にあって、実際に起こりうる出来事。これが大事だ。変にいじくり回して「いやー、無い無い」と思うようなことを「あったら面白い」という観点で描くと、あり得ないけど映画としては面白い作品が出来る。そう、面白いのである。これはこれで良い。僕も娯楽映画は大好きである。だが、所詮はそれだけのことだ。たまには文学的な作品が見たい。いや、見なければいけない気がする。人の心に一生残り続け、時にその人生を左右するほどの影響力を持った映画。だがちょっと待てよ。ここまで書いて気付いた。「文学的な映画」は今でも時折見受けられるが、「映画になる文学」を書く人がそもそももういないのではないか?

 今まではスタインベックやヘミングウエイやトルストイといった文豪の作品が映画化されている。じゃ、今はどうなんだろう? なんだかあやしくなってきたぞ。この続きはまた今度。

       「我が谷は緑なりき」