つぶやき
「つぶやく」とは「小さな声で独り言を言う」という意味だそうだ。独り言は通常、聞き手がいないことを前提として発せられる。その内容は限りなく自由だ。何しろ聞き手が存在しないのだから、批判されることはないし、誰かを傷つける心配もない。上司の悪口でも、好きな人への思いの丈でも、何の根拠もない感情論でも、何でも言いたい放題。だからドラマやアニメでは、他人に聞かれては困る独り言を、誰かに聞かれて慌てたりするシーンがよくある。だが今ではその独り言が、つぶやくかわりにネットに書き込まれ、状況によっては第三者でも閲覧できる。匿名であれば気にもならないだろうが、注意しなければいとも簡単に自分が恥をかいたり、他人を傷つけたりしてしまう。さらに問題なのは、内容が文章として残ることだ。
一時の感情から発せられるつぶやきは、時間の経過とともに忘れられていくことが多い。他人と会話していても「そんなこと言ったっけ?」とか、「あの時は腹が立っていたからそう言ったかもしれないけど・・・」なんて言葉をよく耳にする。だが、すでに本人が忘れてしまっている感情であっても、文字によって記録され、その文章が残っていれば、読む側には現在進行形で伝わることになる。そしてこの時間のギャップは大きな誤解を生む。さらに文章がコピーされたりしていれば、本人が削除しても別の場所で存在し続ける。こうなると、例えそれが一時の感情から出た刹那的なコメントであっても、読む側からはその人の恒久的な意見や主張としてとらえられてしまう。
僕はこのブログを書くにあたり、原稿を用意している。UPするまでに何度も推敲するので、なかにはタイミングを逸してUPできないものもある。それらの文章はそれなりに主張を含んでいるから、そこには文責というものが発生する。だからSNSやツイッターのような書きっぱなしのメディアは恐ろしくて使えない。逆に言えば、考えを文字で表現する以上、たとえSNSやツイッターのような短い文章でも、書いた側には責任が発生するということだ。考えを言葉で発するのと、文章にして提示するのとでは大きな違いがあると認識するべきだろう。特に多くの人が閲覧可能であり、しかもその管理が第三者にゆだねられているネット環境においては、軽々しく書き込みをするべきではない。メール、ラインやツイッター等に代表される文字によるコミュニケーションは、言語による会話とはそもそも性格が違うと考えた方が良い。
ネット上ではツイートすることを「つぶやく」と言う。ツイートとは本来、小鳥のさえずりのことを言うらしい。この「さえずり」が、ある大国の国民を分断したことは記憶に新しい。そしてそれは今も続いている。やはり独り言は、誰もいないところでボソッとつぶやくに限る。