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 教育と金

 以前から、人類の行う行為で「最も大規模なもの」は戦争、「最も重要なもの」は教育だと考えている。どちらも金がかかる。

 教育現場がブラック企業になぞらえて言及されるようになってから久しい。教師は多忙を極め、それに見合った報酬もない。行政は設備投資にはそこそこ積極的だが、人的環境の充実にはなかなか出資しない。そんな中で心身を病む教師も少なくない。今の教育現場は文字通り命がけだ。使命感に燃えて、過酷な仕事を快く引き受けるような時代はとうの昔に終わっている。

 僕の住んでいる地域では、教師の定年は60歳だが、近々65歳まで引き上げられる予定だ。現在は定年退職者に対し、「再任用」という枠が設けられていて、希望すれば65歳まで仕事を続けることができる。教育委員会は毎年、定年退職者に「経験豊かなベテラン教師の力を、是非とも本県教育のために・・・」などと美辞麗句を並べて勧誘するそうだ。だが、給与は満額にはほど遠く、状況によっては半減する。近年では「馬鹿らしくてやる気にならない」と、辞退する人が続出しているとのことだ。さらに不思議でならないのは、現場に講師の割合が増えてきていることだ。

 講師は、いわゆる「教諭」ではないが教員免許を持っていて、別枠で契約し、現場で教育活動を行う。それを生業にしている人もいれば、「今年は採用試験に受からなかった」ので講師の契約をする人もいる。だが、採用試験に受からなかった人を講師として現場で使う、というのはどういうことなのだろう。もちろん、こうした講師の中にも現場で十分力を発揮する人は多い。ということはつまり、「使える人」を採用せずに別枠で雇っているわけだ。

 講師にはその勤務形態によっていくつかの種類があって、給与体系も違う。基本は1年契約。昇級もあるが、教諭と違ってある一定のラインでそれ以上の昇級はストップしてしまうようだ。つまり、安く使えるということだ。しかしその講師でさえ近年では状況が厳しく、不足しているのが現状だ。ちなみに先ほどの「再任用」の給与はさらにその下をいくという。「ベテラン」と持ち上げて安く使う。そう思われても仕方がない。もちろん、僕には教育自体を金で計る意図はない。だが携わる人間にはプライドも生活も人並みにある。(※)

 戦争と教育。軍事予算では、使わないかもしれない兵器の開発にも莫大な金が落とされる。だが教育予算では、今必要な金がなかなか下りてこない。例えるなら、一方では罹らないかもしれない病気のために多額の保険料を支払っているが、一方では明らかに病気の人がいるのに治療費が支払われない。「様子を見ましょう」ということだ。その診断は正しいのだろうか。

 繰り返すが、もう使命感だけで教育ができる時代ではない。そんな美談が通用したのは、世の中がもっと単純で、素朴だった頃の話だ。教育現場はすでに疲弊している。行政は労働環境の改善や人員の確保など、いろいろな意味で教育にもっと金を使うべきだ。

※ 実際には公務全般にわたって多くの非正規職員を安く使うという状況にある。地域によってはあの「児童相談所」も同じ状況だという。

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 「お国のために」再び

 時々政府が、日本の学力の平均点が国際的に落ちてきていることを問題にするが、僕に言わせれば大きなお世話だ。国際競争力を向上させるために教育内容を増やし、生徒はもちろん、学校の先生たちも点数を上げるために四苦八苦している。だがこれらの努力は生徒一人一人の幸せとどんな関係があるのだろうか。 平均点とはただのデータであって、その中にはすごくできる子もすごくできない子も含まれている。すごくできない子の中には、貧困が障害になっている子も少なくない。そのへんの手当はできているのか。さらに、教育ということを真剣に考えれば、学力が高ければ良いという問題ではないということは誰にでもわかる。現に学力が高くても、殺人を犯す中学生がいたではないか。平気で弱者をいじめる子どももいるではないか。学力の土台となるもの、そのひとつである公徳心とか人間性を、今の教育はきちんと身につけさせているだろうか。ここで言う教育とは学校教育に限った話ではない。家庭教育についても同じ事だ。僕の経験からすると、家庭にも学校にも、そんな余裕はない。メディアや教育産業が不安を煽るので、生徒や保護者は誰もが塾に通わなければいけないような錯覚に陥っている。ある極端な例では、子どもが帰宅する時刻は午前2時だ。このことに対して学校は何も言えない。営業妨害になる恐れがあるからだ。実際に訴訟問題も起きている。さらに学歴が低いことに対する偏見も根強く残っている。教師や親が子どもの前でうっかり口を滑らせて、学歴が低いとろくな仕事に就けない、などと口走る。ではろくでもない仕事とは?従事者の前で明言できるのだろうか。

  ある時、テレビで「今の若者は鶏肉がどんな鳥の肉か知らない」事を話題にしていた。下の娘(大学生)が       「なんであんな事がわからないんだろう?」         と言うので、僕はこう答えた。              「学校で教わらないからさ。」

 今の子どもたちは学校で授業を受け、部活動の後は塾へ行く。勿論全員ではないが、それが主流になっている。塾は部活動が終わる前に授業が始まる場合があって、当然生徒は部活動を休むか、中途で切り上げて、いそいそとお迎えの車の中へ消えていく。帰宅時刻はかなり遅い。帰宅した時には疲れ果てている。つまり、学力をアップさせるために、1日のほとんどの時間を費やしている。他の活動で知識を広げる余裕など無い。つまり、鶏肉がにわとりの肉であることや、鮭は切り身で泳いでいるわけではないことを教えてもらう機会も無いということだ。こんな常識的なことは、もちろんテストには出ないから、そんなこと誰も気にしていない。文科省、わかっているのかなあ。これが中学生の現状なんだよ。そういった問題に気づきもせず、学力の国際競争力を問題にする。「お国のために」、今度は人間形成に最も大事な時期を捧げろというのだろうか?もう一度言うが、学力という分野における国際的な競争に勝とうが負けようが、騒いでいるのは政府であって、子どもたち一人ひとりの人生にはたいした影響はない。やるべき事はもっと他にある。

 うちの娘たちと僕はとても仲が良い。だから話す機会も一緒に行動する機会も多かった。そんななかで娘たちは色々なことを覚えていった。もちろん鶏肉が何の肉かも知っている。僕は娘たちを塾へは行かせず、勉強も教えなかった。かわりに何のために勉強するのかを考えさせ、勉強の仕方を教えた。良い本を紹介し、素敵な映画を見せたりもした。そのことによって特に人より劣ることもなく、楽しく生活できているようだ。それで良いではないか。