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 雪国

 「雪国」といっても、小説の話じゃない。僕が若い頃からなぜか抱き続けている憧れのことだ。

 雪国へ旅行したい。しかも厳寒の冬のさなかに。結婚してすぐ、京都で年越しをしたことはある。でもその年は暖冬で、雪は残っていたものの、どこへ行ってもぬかるみだらけだった。学生の頃、冬の軽井沢で足止めを食らったこともある。その日、碓氷峠は一夜のうちに降り積もった積雪で、朝から通行止めになっていた。だが勿論僕の言う「雪国」とはこんなレベルのものじゃない。

 忘れられない光景がある。それは今にも軒(のき)まで届こうかという積雪に、屋根から垂れ下がったつららが一体化した、雪国の古びた一軒家の佇まいだ。雪はとうに止んでいて、顔を出した太陽の光がつららに反射していた。小学生だった頃、TVで見た光景だ。番組の内容は憶えていないけれど、なぜかその光景だけが今も脳裏に焼きついている。

 僕の住んでいる地域では雪が降ったとしても年に1~2回、積雪ともなれば年に一度有るか無いかだ。積雪量も最近では10センチを超えることはほとんど無い。庭には毎年のようにふきのとうが顔を出すけれど、一度でいいから、雪をかき分けるようにして顔を出すふきのとうが見てみたい。何だろう、この脈絡のない欲求は。

 そんな僕が、真冬の白川郷に行きたいと言うと、家族は「なんでそんな寒いところへ。一人で行けば」とつれない。普段は仲の良い家族なのに、なぜかこの件に関してはなかなかに手強い。仕方がないので、TVの雪国に関する番組を見て気持ちを紛らわす。そんな中でふと気付いた。どうも僕の頭の中にある「雪国」は、東北から北陸にかけての地域に限定されているようだ。北海道は「雪国」というよりは「北国」で、妙にお洒落なイメージがある。お土産はまんじゅうじゃなくて洋菓子、そんな感じだ。僕が抱く「雪国」のイメージは何というか、もっとベタな生活感を伴うものだ。僕もいい歳なので、雪国に住む人々の苦労は理解している。だから軽い気持ちで言っているわけじゃない。だがそんな雪国の景色が日本の原風景の一つであることは間違いない。それをこの目で見てみたい。

 東北出身の父は生前、「雪国の生活を知らなければ本当の日本を知っているとは言えない」と言っていた。それならば、古びた民宿などに長期滞在して、春の訪れを待つのも良いかもしれない。そうすることによって、囲炉裏の火の温もりや、春を待ちわびる期待感を少しは実感できるに違いない。だが現実的には、そんな旅は不可能だろう。

 こうして考えてみると、僕が雪国への旅に求めているものは、おそらく五感で得られる感覚的なものだけではなく、心理的な経験でもあるのだろう。それは単に観光客として「訪れる」だけでは得られないものかもしれない。それでも心のどこかで雪国探訪を諦めきれない自分がいる。

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 劇場版 高木さん

 劇場版「からかい上手の高木さん」を見てきた(前回参照)。封切りからかなり経っていることもあって席は半分も埋まっていなかったが、僕と同じぐらいの年齢とおぼしき男性客がいっぱいいて、びっくりするとともにちょっと安心した。映画そのものは、はっきり言って思っていたのとちょっと違う印象。もっと盛り上げてくるかと思ったが、シリーズを通して初めて見せる高木さんの涙のシーンも含めて、さらりと流していた気がする。監督曰く、「大風呂敷を広げるのではなく、夏の間の小さな物語が描けたら・・・(パンフレットより)」ということだから、ねらいとしては当たっている。ただ、TVシリーズ第3期の後半からラストにかけてが感動的だった故に、ストーリー自体が霞んでしまった気がする。最近のアニメでは、よくエンドクレジットの後に後日談のようなパートがあるじゃないですか。この劇場版は第3期の最終話の後にそれを70分見せられたような感じ。やっと気持ちの通じ合った二人がその後、どんな日常を送っているか、といったような、ね。

 じゃあダメ映画だったかというとそんなことはなくて、これはこれでまた別の魅力がある。中3になった二人が一緒に「グリコ」しながら下校するシーンでは「お前らなあ。」なんてあきれながらもつい微笑んでしまうし、ゴール直前で高木さんが「チョキで負けたらキスして?」なんてセリフをごく自然に言うので、勿論西方君にはそんなことできるわけないと思っているからこそのセリフだとわかっているんだけど、以前とはちょっと違う、あまりにも自然なその言い方にドキッとさせられたり(おっさんが中学生のセリフにドキドキしてどうするんだよ)。他にも二人の関係が、今ではちゃんと成立していることを匂わせるシーンが散在していて、見守り組としてはまことに喜ばしい限りだ。さらに夏休み中も毎日会うための口実として(口実を探すところが良いよね)、高木さんが「一緒にラジオ体操しよう!」と、らしくもない提案をして笑いを誘ったり、夜のバス停のシーンでは、もう少しで手を繋げるのに、というタイミングでバスが来て、「空気の読めねえバスだな」と思わされたり。うん。バスに空気は読めないな。

 もう一つ言っておきたいのが、これは綺麗な映画だ、ということ。舞台となっている小豆島の自然や棚田の風景、そして伝統行事「虫送り」の情景とその上に広がる満天の星空。加えて今回のキーパーソン?である子猫の描写がリアルでありながらとても美しい。それに、ペットショップ店員の太田さんをはじめ、ちょっと出の脇役でさえもいい人たちばかりだ。考えてみると、TVシリーズではこんなに大人が絡むことはなかった。これも二人が少し大人になった証しか。純粋無垢な少年・少女もいつしか大人になってしまうんだなあ、なんて寂しく思いながらも、周りの大人たちがみんな優しいから、僕自身もその一人になったような気持ちで受け入れることができた。ここでは詳しくは書かないが、特に終盤の太田さんの「よかった、元気そうで・・・。」というセリフは、映像では描かれていない多くのストーリーを一言で物語っている気がする。太田さんの二人に対する気持ちを想像すると、嬉しくて泣けてくる(比喩です)。

 こうして考えてみると、一番温かい気持ちで二人を見守ってきたのは、実は制作スタッフなのかも知れない。そもそもTVシリーズ第3期の中盤あたりから、「どんだけ二人の幸せを願ってるんだよ」という感じはあった。今回も、監督は脚本家たちに「ストレスはできるだけ小さく・・・」と指示していたそうだ。この「ストレス」とは、見る側のストレスであると同時に主人公たちのそれも意味していて、ドラマを盛り上げるために二人を深く傷つけるようなことはしたくない、という気持ちが伝わってくる。優しいなあ。そんなスタッフたちの思いが、あの中坊ラブコメアニメをここまでの作品にするんだね。ホントに不思議なアニメだよな。

 実を言うと、高木さんが泣きじゃくるシーンでウルッと来そうだな、なんて覚悟していたのだが、意外にも難なくパス。というのも、涙のわけも取り返しがつかないほど決定的なものではなかったし(脚本家の皆さん、ありがとね)、西方君の前で涙を流せるようになった高木さん、という二人の関係が逆に微笑ましく、むしろ安心感を覚えたからだ。先に述べたように、監督がこのシーンを「日常の中で起きた一つの事件」としてさらりと描いているというのも理由の一つだろう。その証拠に、このシーンはけっしてクライマックスという扱いではなく、さりげなく次のエピソードへと繋がっていく。だが意外にも、例の三人娘の、いつまでも友達でいたいという気持ちが溢れるシーンでは、不意を突かれて思わずウルッと来てしまった。不覚。ついでに言うと(ついでは失礼かな)、例の木村君は今回も男気を炸裂させていた。お前ってホント、良いヤツだよ。

 二人はこれからも、学校の友人たちは勿論、さらに地域の人々や、果ては小豆島の大自然にも見守られながら「素敵な日常」を積み重ねていくのだろう。TVシリーズでは限定的に描かれていた二人の世界が、多くの人々に見守られていることを実感できたことで、「変わっていくこと」に否定的だった僕も、二人の未来について「よかったね」と言えるようになったかな。パンフを買うのはすげー恥ずかしかったけど、意を決して見に行って良かった。

 最後に一言。この映画が描く幼い恋と、それを見守る大人たちの眼差しや背景の描写に、古き良き原風景のようなものを感じるのは僕だけだろうか。