T飯店のチャーハン
チャーハンが好きだ。あまりいじられていない普通のやつがいい。子どもの頃、近所に町中華の原体験となった店があって、それがT飯店だった。僕の住んでいたT市にも本格的な中華料理店はあったが、入ったことは一度も無かった。その店のショーケースには鶏の丸焼きが飾ってあって、その店の前を通るたびに、いつかあれを注文してみたいと子どもながらに思ったものだった。ただしこの話にはオチがあって、鶏の丸焼きに見えたのは実は北京ダックであって、肉を食べる料理ではないことを知ったのは大人になってからのことだった。北京ダックを出すぐらいだから,相当本格的な店だったのだろう。
その当時T市にあった「T名店街」という名のアーケード街には、もう一件、名前は忘れてしまったが小さな街中華の店があって、そこで僕は肉団子とカニ玉の味を覚えた。だが、ほとんどの街中華的な料理は、出前を頼めるT飯店で初体験したのだった。
T飯店は僕が小学生の頃にオープンし、ご主人が亡くなった今も健在である。今では奥さん(というか、もうばあちゃんだ)が一人で切り盛りしており、多少薄味になったものの、あの頃とほぼ同じ味付けを楽しむことができる。僕は27歳の時にT市を離れたが、今でも帰省する折にはT飯店の営業日に合わせてスケジュールを決め、家族を連れて店を訪れたり、実家で出前を取ってもらったりしている。ただし、出前と言ってもおかもちを運ぶのは我々だ。ばあちゃん一人の店なので、多人数の注文の時は我我が運ぶのである。娘たちはT飯店の味がとても気に入っていて、すでに家を出て一人暮らしをしている長女など、T飯店のご飯が食べたいがために個人的に実家に遊びに行っているぐらいだ。下の娘も時折、うなされたように「T飯店のチャーハンが・・・」とつぶやく。
T飯店は看板も落ち(文字通りの意味である)、斜めに立てかけてあって、なじみの客以外はそこが現役の飲食店であることすら気付かないであろう、といった外見である。暖簾も色あせ、近づいてみないとそれが暖簾であることすら気付きそうにない。 中に入ると、今時こんなテーブル売ってるのかいな、という感じの古ぼけたテーブルが並んでおり、その上には雑誌や新聞が置いてあって、食事の邪魔になることこの上ない。椅子に至っては何度買い足したのか、同じデザインのものは二つと無い、と言っていい。テレビはいつもつけっぱなし、壁に貼ってあるお品書きは一度だけ値段の部分を貼り替えてあるが、いずれも油を吸って茶色く変色し、10年以上値上がり等は一切無かったであろうことがわかる。加えてラインナップも、僕が子どもの頃とほぼ変わらない。ただし、今は一人で全てをまかなっている都合上、その日の仕入れによっては「今日はできません」というものもあるようだ。少し前までは店の隅で老犬が寝ていたが、残念なことにその犬は昨年亡くなったと聞いた。そんな店構えであっても、近くにある法務局や司法書士会館の人たちが昼食を食べに来るので、客足が途絶えることが無い。安くて美味いのだから無理もない。
僕がいつも頼んでいたのはチャーハンと餃子の定番の組み合わせかオムライス。時々麺類を頼むが頻度はそう多くはない。このチャーハンがとても美味で、今まで食べた中ではT飯店のチャーハンが一番だと思っている。だから、中華料理の店では必ずと言っていいほどチャーハンを頼んで味を比べてしまう。しかし、他の店でチャーハンに満足したことは今までただの一度も無い。勿論T飯店のチャーハンが誰が食べても世界で一番美味、と言っているわけではない。要するに、僕の好みの味なのだ。さらにこのチャーハンについてくるスープが、これまた絶品なのである。レシピはとても単純だ。刻んだネギと醤油の入った小椀に豚のバラ肉(多分)で取ったスープを注ぐだけ。これがすこぶる美味い。これが飲みたいがためにチャーハンを頼んだこともある。 勿論その他のメニューも頼んだことはある。特に肉もやし炒めや肉ネギ炒めなど、いつ食べてもおいしいし、ラーメンは勿論もやしそばも捨てがたい味付けだ。残念なのは、餃子の皮が以前より薄い物に変わってしまったことで、元々僕は、餃子については皮が厚くてもっちりしているものが好みだったので、この変化はかなりショックだった。
僕は料理好きで、一度食べておいしかったものはその味を家庭で再現を試みるという悪い癖がある。たいていの料理は何となくそれに近いレベルまでいけるのだが、このT飯店の味だけはどうしてもうまくいかない。料理に合わせてラードを用いたり、化学調味料の力を借りたりしてみても(中華料理ではけっこう使うらしい)、なかなか近づけない。T飯店のばあちゃん曰く、「家庭用のガステーブルではどうしても火力が足りない」のだそうだ。
さて、僕たちはいつも土曜日にこの店を訪れる。土曜日は近くの職場がお休みなので、店は貸し切り状態で、気兼ねなくT飯店を満喫できる。ばあちゃんはいつも卵スープをどんぶりに2杯サービスしてくれる。その代わり、最近はチャーハンを頼んでも、例のスープは出てこなくなった。ある時、意を決して聞いてみた。 「いつもチャーハンについてたあのスープは、もうできないの?」 「えー、できるけど卵スープの方がおいしいじゃん。」 確かに、卵スープは一品としてメニューに載っているぐらいだから、そちらの方が手が込んでいる分、ありがたみはある。だがしかし・・・。 「いやあ、俺、あのスープが好きだったんだけど・・・」 「ああ、そう。いいよ、つくったげるよ、簡単だから。」 そりゃそうだ。スープで醤油を薄めるだけなんだから。 ばあちゃんももう年だ。だがチャーハン作りに欠かせないあの腕の振りは今も健在だ。あと何年、このチャーハンが食べられるだろうか。いつもそんなことを思いながらチャーハンの味を噛みしめるようにして食べている。娘たちも同じ気持ちのようだ。 また来るから、長生きしてよね、ばあちゃん。