「闘う」ということ
最近CMで中島みゆきの「ファイト!」をよく聞く。1983年のアルバム「予感」の中の1曲。当時とても好きだった曲で、何度も繰り返し聞いた覚えがある。それが今、CMソングとして流れている。嬉しい。自分の時代がまだ終わってない、という気がして嬉しい。プロデューサーの誰かが持ち込んだのだろうが、この歌の価値観が今も通用していることが嬉しい。
昔、一時教員をしていた頃、生徒たちにこの歌を紹介したことがある。僕が紹介したのは、「闘う君の唄を 闘わない奴等が笑うだろう(歌詞カードより)」という、まさにCMで使われている一節だ。「そんな奴等を気にするな、放っておけ。闘うか闘わないかは自分自身の問題なんだから」そんなことを話したと思う。平成の時代に、頷きながら真剣に聞く生徒が多くてびっくりした記憶がある。
アンドラ・デイという女性歌手がいる。何でもレトロ・モダンとか言うジャンルのソウル(?)シンガーなのだが、彼女の2016年のアルバム「チアーズ・トゥ・ザ・フォール」には「ライズアップ」という名曲がある。こちらには「そして私は立ち上がる あの日のように 何度でも 私たちは立ち上がって見せる 恐れずに あの波のように高く」という一節がある。かっこいい。かっこいいだけでなく、彼女が黒人シンガーであることを考えると、今のご時世、とても意味深長に思える。この「私」あるいは「私たち」も、あきらめずに闘い続ける側の人たちだろう。
この2曲は、どちらも人生を闘う人たちの歌である。ただし、「ファイト!」は闘う人を見守る第三者の視点で歌われる。だが僕が思うに、この歌における主体は自分も闘っているか、あるいはかつて闘っていた事のある人物だろう。では、人はなぜ闘うのだろうか。
闘いには二つの種類があって、一つは勝敗を決するための闘い。戦争はこれにあたる。スポーツの試合なんかも含まれるといっていい。勝敗が決すれば、その闘いは終わる。そしてもう一つが、闘い続けること自体に意味がある闘い。以前に紹介した映画「バニシング・ポイント」や「暴力脱獄」の主人公たちの生き様はこれだろう。自分が自分として存在し続けるための闘い。映画では、主人公はどちらも死んじゃったけど、それは「屈しなかった、負けなかった」ということなんだと思う。そしてそこには勝利という概念が存在しない。もともと勝ち目のない相手に闘いを挑み、それでも負けないために闘い続けている、と言ってもいい。「ファイト!」に登場する魚たちは鱗をはがされながらも流れに逆らって泳ぎ続ける。そして「諦めという名の鎖を 身をよじってほどいてゆく(歌詞カードより)」。
意味合いはちょっと違うが、大昔の歌で文字通り「勝利への賛歌」というのもあったっけ。ジョーン・バエズ(現在80歳、まだ歌ってるみたい)という、アメリカのフォークシンガーが歌った。「死刑台のメロディー(1971年公開)」という、1920年に起こったアメリカの恐るべき冤罪事件をモチーフにした映画の挿入歌。「正義とは何か」を問う内容の映画であった。これも良い曲だったなあ。ちなみに作曲はエンニオ・モリコーネだったんだって。なんか、急に思い出してしまった。ところで、僕はこの歳になっても闘う側に立ちたいと思っている。笑われても良い、それでも死ぬまで闘う側の人間でいたいなあ。
※「恐るべき冤罪事件」とは1920年にアメリカのマサチューセッツ州で起こった「サッコ・ヴァンゼッティ事件」のこと。被告のイタリア移民サッコとヴァンゼッティが証拠も曖昧なまま強盗殺人の罪で逮捕され、7年後に死刑に処せられた。50年後の1977年にマサチューセッツ州知事が、「裁判は偏見と敵意に満ちていた」事を認め、二人の無実を公表した。「マッカーシズム」と合わせて検索すると、アメリカが嫌いになるかも。