忘れられない二人の女性
今までに出会った女性の中で、恋に落ちたわけでもないのに、どうしても忘れられない人が二人いる。
一人はその昔、行きつけのカフェ・バーで出会った。当時20代後半の僕は、仕事帰りに必ずと言っていいほどこの店に立ち寄っていた。雰囲気も良く、ちゃんとしたカクテルを出す店なので、それなりの人々が一人ずつ集まってきてはカウンターを埋め、趣味の話や酒へのこだわりの話などで毎晩のように盛り上がっていた。そんな常連客のなかに彼女がいた。なかなかにチャーミングで、お酒が好きという彼女は、やはりお店の雰囲気に惹かれて常連になったという。
その年の2月14日。僕は独身で、付き合っている女性もいなかったから、バレンタイン・デーなんて関係ない、といった体(てい)で、その日もマスターと車の話で盛り上がっていた。するとそこへ彼女がやってきた。「こんなところでアブラを売っていて良いんですか?バレンタイン・デーなのに。」「大きなお世話。そっちこそどうなの。」「こっちは大忙しです。これから義理チョコ配りだから。でもその前に・・・」彼女は抱えていた大きな紙袋から綺麗にラッピングされた箱を取り出した。「ガトーショコラ焼いたんです。これ、○○さん(僕の名前)に。一番綺麗に焼けたやつ。」「あ・・・ありがとう・・・?」「いつもお世話になってしまって。駐車場に○○さんの車があると、安心してお店に寄れるんです。じゃ、他にも寄るところがあるので、今日はこれで。また今度。」「あ、ああ、気をつけてね。」
あまりお世話した記憶など無いのだが、彼女曰く、僕の隣で飲んでいると誰も言い寄ってこないので、安心してお酒が楽しめるのだそうだ。ここで皆さんに聞きたい。これって、喜んで良いのだろうか。マスターは「すごいじゃないですか!」とか言っていたが、あれはどう考えてもからかい半分だ。何がどうすごいのか説明してみろ、と言いたい。でも僕自身、ちょっとふわふわした気持ちになったことは白状しておく。
もう一人はゲレンデで出会った。これも20代後半の頃だったと思う。出会ったとは言っても、話したのはほんの10分ほど。長い人生の中で、たったの「10分ほど」だ。
その日、男同士で日帰りスキーに来ていた僕は、平日で空いていることもあって、1日リフト券の元を取ることを目標に、集合時間と場所だけを打ち合わせて個別に滑ることにしていた。何本目かを滑り終えた僕が再びリフトに乗ろうとしたとき、その人はどこからともなく現れ、ペアリフトの僕のとなりに何気なく座ったのだった。
いかにも「滑りに来ているんです」といった雰囲気に気圧されながら、でもよく見ると綺麗な人だった。間違ってもウブな男ではなかったが、不意を突かれた僕はちょっと動揺していた。リフトってこんなに遅かったっけ。相手は嫌がるかも知れなかったが、何とか間を持たせたかった僕は、煙草を1本取り出して火をつけようとした。ところが、ご存じのようにリフトの上は吹きさらし。愛用のジッポをもってしても、なかなか火をつけることができない。すると隣に座っていた彼女が何も言わずに両手を伸ばし、グローブをはめた掌をかざして風を遮ってくれたのだ。これも不意打ちだった。いや、むしろ反則技だろう。その時の僕の気持ちを表現する言葉がいまだに見つからない。
無事に煙草に火がつくと、僕は礼を言い、それをきっかけに僕らはリフトを降りるまでのつかの間、他愛もない会話をした。「煙草、嫌じゃないですか?」「大丈夫。平気です。」「どちらから?」「○○です。」「僕はΔΔから。」「わりと近くですね。」名前は聞かなかった。すごく聞きたかったけど。
リフトを降りるとすぐ、僕は言った。「先に行ってください。僕は人に見せるほど上手じゃない・・・。」彼女はすぐに察したようで、アハハと笑い、わかりました、と言ってくれた。僕は最後にもう一度、お礼を言った。「煙草の火、ありがとう。」「なんとか火がついて良かったです。・・・それじゃ。」笑顔でそう言い残すと、彼女は颯爽と滑り出し、現れたときと同じように、あっという間に視界から消えていった。思った通り、彼女の滑りは、僕なんかより遥かに上手だった。
この二人のことは今も忘れることができない。あれからだいぶ経ったから、とうに結婚して、大きな子どももいるはずだ。どこかで幸せな人生を送っていてくれたら良いんだけどな・・・。そんなことを考えながら、スタインベックの短編「朝めし」の冒頭の部分を思い出した。
「こうしたことが、私を、楽しさでいっぱいにしてくれるのである。どういうわけか、小さなこまごまとしたことまでが目の前に浮かび上がってくる。ひとりでに、いくどとなく思い出されてきて、そのたびごとに、埋もれた記憶の中から、さらにこまかなことが引き出され、不思議なほど心のあたたまる楽しさがわきあがってくるのだ。」
(新潮文庫「スタインベック短編集」より抜粋)