虫の声(2)
明日から10月に入る。庭の隅にはまだ彼岸花が咲いているが、盛りは過ぎたようだ。代わりに、数日前からキンモクセイの花が香り始めた。
夏の終わりに何となく寂しさを感じるのは、万人の認めるところだろう。ツクツクボーシが鳴き始め、田んぼの色が黄みがかってくる。あらゆるものの影が少し伸びて、空も今までより高く見える・・・。だが、本当に寂しくなるのはそのあとだ。
数年前の秋のことだ。ある夜、コオロギの声がすっかり聞こえなくなっていることに気付く瞬間があった。その時僕は、今までに無い寂寥感を感じた。勿論実際にはそんなことはないが、今年の生命の営みは今日終わったんだと、そんなふうに思えたからだ。科学技術に裏打ちされた人間社会ではほとんど感じることのできない感覚。それをなぜかその時に限って強く感じた。
日本の「二十四節気」には「啓蟄」というのがあって、これは冬ごもりしていた虫たちが再び姿を現すことを意味する。そういえば毎年、「おお、蟻がでてきた!」なんて日があって、変に心が躍る。これらは目で見て初めて認識される変化だ。一方虫の声は、その対象が目の前にいなくても認知できる。ある意味、「環境音」に近い。
日本人はなぜこうも虫の生態に心引かれるのだろう。先ほど僕は「虫の声が途絶えると今年の生命の営みが終わったように感じる」と書いた。実際には鳥のさえずりは年間を通じて聞こえているし、植物の世界ではこれから実りの秋を迎えるというのに。多分これは、虫たちのほとんどが短期間でその活動を終えるように見えることに起因しているのだろう。その儚さが、日本人の心情にマッチしている、ということだ。例えば夏の虫の代表である蝉は、羽化してから1~4週間でその寿命を終え、夏の終わりにはその屍をさらす。ところが、実際には幼虫時代を土中で数年過ごすと言われていて、長いものでは5年を超えるそうだ。それを知ってしまうと、確かにちょっと興ざめする。
あらためて考えてみると、「鳴く(というか音を出す)虫」はそれほど多くない。日常的に聞くことができるのは蝉やコオロギ・バッタなどの類(たぐい)だろうが、僕としてはもう一つあげておきたい。それは「ケラ」だ。一般的に「オケラ」と呼ばれている、コオロギの仲間だ。初夏の頃に夜のあぜ道などで聞くことができる「ジー」あるいは「ビー」と表記できる鳴き声(というか音)で、思いのほか大きな声で鳴く。毎年その時期になると、うちの家族は「オケラが鳴き始めたね」などと言って話題にする。
初夏から初秋にかけての、1年の1/3に当たる期間を、人はこうした虫の声をそれとなく聞きながら生活している。それが中秋の頃にぱったりと途絶えてしまうわけだから、寂しく感じるのも道理と言えば道理だ。だが、こうした季節の変化を感じ取れる生活をしている人は、もしかしたら今ではそんなに多くはないのかも知れない。僕はどちらかと言えば幸せな部類なのだろうと思う。