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 よせば良いのに・・・続 二人乗り

 よせば良いのに、この前「二人乗り」で書いた「未熟で美化された人生の縮図みたいなもの」について、あらためて考えてみた。というのも、あの原稿を書いているうちにいろいろなことを思い出してしまって・・・。例えば彼女の言葉とか、表情とか、仕草とか。まったく、いい歳してなにやってんだろうなあ。でも「いい歳」になったから、もう書いても良いんじゃないかな、なんて思ったりもする。何しろ、ときめいたり、切なかったり、そういうのって最近無かったから(あったら困るよ)、ちょっと・・・ね。それに夏って、何となくセンチメンタルになってしまうことがあるじゃないですか。えっ?ない?あるんだよっ!

 高校3年の時につきあい始めたその彼女は、どちらかと言えば落ち着いた性格で、自分の気持ちを素直に表現することのできる人だった。自分がそんなふうだからか、僕が強がって見せたり、無理をしたりするとすぐわかるらしく、「無理しなくて良いのに・・・」と、よくそう言われた。初めのうちは「くそ、読まれてる」なんて思っていた僕も、次第に「でもまあ、いいか」と思えるようになり、彼女の前では自然体でいることが多くなった。それは「素(す)」で向き合えるということであって、仮にそれが思い込みだったとしても、お互いに全てわかっているような不思議な安心感があって、一緒にいると居心地が良かった。二人乗りをしている時に、そんなに疲れることでもないのをわかっていながら、彼女はごく自然に「大丈夫?疲れない?」なんて言ってくれることがあって、僕もその会話の意図がわかるから、そんなに疲れるわけないだろ、と思いながらも「うん、平気。本当に疲れたら言うよ」なんて素直に答えることができた。言葉の意味よりもむしろ、他愛もない会話という行為そのものの中で、互いを気遣う気持ちを確認し合っていたんだと思う。

 あの頃の僕たちはまだ本当の大人ではなかったけれど、これ見よがしに大人と同じ事をしようなんて思わなかったし、むしろ大人になることを拒んでいたように思う。ある時、たまたま立ち寄った書店で流れていた「ダンシング・クイーン」の、「Young & Sweet Only Seventeen」という歌詞を耳にした彼女が、「私たち、もう18歳だね。セブンティーン、終わっちゃったな・・・」と寂しそうに言ったのを今でもよく覚えている。彼女は「今」という時間が何も変わらないまま、いつまでも続いて欲しいと本気で願っていて、僕もそれは知っていたけれど、二人ともこの関係がいつかは終わる、あるいは、続いたとしても形が変わっていくことはよくわかっていた。僕たちは「過ぎていく時間」という現実に気付かないふりをしながら、残り少ない高校生活を精一杯楽しみ、その一方で知らず知らずのうちに、世間には通用するはずもない二人だけの人生観を紡いでいったのだと思う。それが僕の言う「未熟で美化された人生の縮図みたいなもの」の意味だ。そこには性的なイメージなど微塵もなかったけれど、体が触れ合うことは心地よかったから、二人乗りしていて、「今日は疲れたー」なんて言いながらもたれかかってくることもよくあった。そんな時には、僕も「いいよ、もたれても」と言って促すのが常だったけれど、だからといって人前で手を繋ぐなんてことはしなかった。

 そんなふうだったから、何気なく寄り添える「二人乗り」がとても大切なものになっていったのだろう。彼女は二人乗りしている時は妙に素直になり、時に「いつまでもこうやって走っていられたらいいのにな・・・」などとつぶやいて僕を困らせることもあった。多分言葉にしてみたかっただけで、その気持ちはよくわかったけれど、僕が困惑気味に「言いたいことはわかるけど、さすがにそれは無理だよ」と言うと、彼女もそんな僕に気付いたのか、「そうだよね、無理だよね・・・」と言って微笑み、最後には大人しくバスに乗って、小さく手を振りながら帰って行くのだった。

 そんな日常を互いに支え合いながら共有していたのが、僕たち二人の関係だったように思う。二人を見守ってくれていた友人たちからは、よく「お前らって、安心して見てられるよな」なんて言われたものだ。彼らは僕たちが心の奥底に「過ぎていく時間」への葛藤を抱えていることは知らなかったから、それ故に互いを気遣う二人の姿が理想のカップルに見えたのかも知れない。

 全ては遠い昔の話だ。だが思い出は今も記憶の中にある。それは言うなれば、あのとき彼女が望んだ、いつまでも変わらずに続く「今」が実現した世界でもある。そこでは今も「ダンシング・クイーン」が流れていて、あの時と変わらない二人が、自転車を二人乗りして走る続けている・・・。こうしていつでもそこに戻っていける僕は、多分恵まれているのだろう。というのも、そういった思い出すら持ち合わせていない人や、持っていてもすっかり忘れてしまっている人も多いからだ。

 彼女には心から感謝している。だって、一生忘れることのできない「青春」という大事な時間を、一緒に歩んでくれたんだからね。 

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 二人乗り

 自転車の二人乗りは違法である。そうそう、最近道交法が改正されて・・・いいや、違う。自転車の定員はもともと1人だから、道交法が始まって以来、ずーっと違法。何ですと!要するに、きっちり取り締まるようになったのが最近なんです。20年ぐらい前、変な二人乗りが流行ったでしょう?荷台を外し、後輪のギヤをガードするシャフトを左右に延長して足を載せ、立ち乗りするスタイルの二人乗りが。覚えてます?今思えば、あの頃から取り締まりがきびしくなっていったようだ。

 高校生の頃、荷台つきのサイクリング車で通学していた僕は、よく学校帰りにバス通学の彼女を後ろに乗せて走った。二人ともできるだけ長く一緒にいたかったから、彼女がバスに乗る駅前まで遠回りをし、時にはそのまま彼女が帰るバスの路線に沿って走った。そうすれば、時間を見て最寄りのバス停からバスに乗ることもできたからだ。その道は大分先で長い坂道になる。僕たちは双方の親から公認されていたから、バスで彼女の家まで行ったことは何度かあったが、彼女は二人乗りでその坂を登ることは望まなかったし、むしろ止められていた。その坂の手前まで行ったことはあった。それはそれでかなりの長丁場だったが、全然苦にはならなかった。青春まっただ中だから当たり前。そんなことをやってたんだよ、あの頃は。良い時代だったなあ。

 今ではマンガの世界でさえ、二人乗りの場面は編集からストップが掛かることがあるそうだ。違法だからダメだって。それもこれも、あの変な二人乗りが流行った時代のせいだ。業者も業者で、シャフト延長用のパーツまで販売され、さらにマナーそのものも時代とともに悪化。そりゃあ、警察だって黙っちゃいない。こうしてまた一つ、青春のアイテムが姿を消したのだった。

 話は戻るが、当時、彼女を後ろに乗せて走っていると、世界が二人だけになってしまったような気がしたもんだ。ある程度スピードがあるので人の目もあまり気にならず、始めは制服の裾を掴むぐらいしかできなかった彼女が、仕舞いには僕のからだに腕を回してしがみつくようになった。いえいえ、何かあると危ないですからね。安全面から考えても、これは大事なことなんですよ・・・?この、大義名分のもとにくっつけるところが、二人乗りの良いところでもあった(大義名分も何も、始めから違法なんだってば)。抱きつかせるためにわざと乱暴な運転をするなんてことは・・・1度か2度しかやってませんよ、そんなこと。

 今後誰かを後ろに乗せて自転車を走らせる、なんてことは2度と無いだろう。だが、彼女との二人乗りは、僕の人生のなかで、忘れることのできない大事な記憶の一つになっていった。いったいなぜ、それほどの価値観を持つようになったのか。それは言葉で説明できるものではないけれど、あえて言うなら、運転している僕を信頼してその身を預けてくれている彼女の存在であるとか、その信頼を裏切ってはいけないという責任感であるとか・・・違うなあ。それも確かにあるけど、そんな端的なことじゃなくて、もっとこう、太田裕美のデビューアルバムのような(???)、ペダルを踏む僕を疲れないかと思いやる何気ない彼女の言葉とか、当時の女の子はみんな横座りだったから、はみ出た膝がぶつからないように進路を選ぶ気遣いとか。こうした心情は二人乗りでしか味わえないもので・・・あの、要するにですね、そこには若い二人が思い描く、人生の縮図みたいなものが詰まっていたのですよ。ついでに言うと、たとえそれがどんなに未熟であろうと、どんなに美化されていようと、そんなことはどうでも良かった。大げさだって?いいや、僕はそうは思わない。単純に二人乗りがどうのこうの、というだけのことではなくて、人生にはそういうかけがえのない瞬間というものがあるのだ。それを僕らにもたらしてくれたのが「二人乗り」だった。今の若い世代があの感覚を知らずに大人になることを考えると、なんとも気の毒な気がする。

 僕と愛車(自転車)のつきあいは大学を卒業した後まで10年以上続き、さすがにガタが来て廃車となった。彼女とは明解に別れた記憶が無い。二人の人間関係は形を変えながら、友人としてその後も続き、大学卒業後、喜ばしいことに彼女は僕のとても信頼していた友人と結婚した。もちろん心から祝福した。だがどんなに状況が変わろうと、あの「二人乗り」は、永遠に僕たち二人だけのものなのだ。

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 「オレが作った」

 ある高校の軽音楽同好会。これを作ったのは僕である。

 当時ロックバンドは若者にとって流行りというか、誰もが一度はギターを、みたいな雰囲気があった。高校合格のお祝いに自分のドラムセットを手に入れた僕は、高校に入ったらその手の部活で腕を磨くぞ、なんて考えていた。ところが、その高校の音楽系部活動のラインナップは「コーラス部」「クラシックギター部」「吹奏楽部」。バンドのバの字も無いじゃないか!当時は学校説明会なんてなかったから、こういうことは良くあった。でもどうしよう?しばらく途方に暮れた。

 学級でこのことを話題にすると、オレもやりたいなあみたいなことを言うやつは結構いた。他のクラスにも数人見つかった。そこで思った。作れば良いんだ。だがメンバーは足りるか?顧問は?はじめは部活動としては認めてもらえない。あくまでも同好会で、予算はつかない。それはまあ良い。顧問は音楽の先生がやってくれそうだ。場所は・・・場所!何しろロックバンドだ。音がでかい。うまく良い場所が見つかるだろうか?

 そんなこんなで1ヶ月。何とか練習場所も見つかり、同好会創設にこぎ着けた。初代会長は僕だ。そこで予想外のことが起こった。上級生が2人、入れて欲しいと訪ねてきたのだ。隠れ同好の士。パーマの長髪。こんな人いたっけ?「会長は1年から出します。それで良いですか?」「良いよ。俺たちはギターさえ弾ければそれでいい。」頼もしい助っ人だ。しかも2人。よっぽど我慢していたんだろうなあ。特にHさんという先輩はギターも上手で気さくな人だった。初心者の僕らにいろいろなことを教えてくれた。

 ところで、当時ロックは不良の音楽。15歳で教室のガラスを割って回ったりはしなかったが、隠れて煙草を吸うメンバーはいた。駅前の喫茶店が僕たちのたまり場で、良くミーティングをした。「煙草を吸うときは上着脱いでねー。」なんて店のおばちゃんに言われながら、楽しい時間を過ごしたものだ。なぜか楽器もやらない、歌も歌わないというメンバーが何人もいて、一緒に行動するのが常だった。今思えば、あれが僕らの青春(死語。でも死語にしちゃいけないんだよ、こういう言葉は)だった。人生で一番輝いていたように思う。

 そんなわけで生徒指導の先生には常に目をつけられていた。根拠のない疑いをかけてくるので、良く口論した。あるとき僕が職員室に乗り込んでやり合っていると、別のある先生が突然僕の名を呼んで、「お前が正しい。」と言ってくれたのには驚いた。生徒指導の先生はぐっと詰まった。「勝った!」そう思った。その僕が教育現場で最後に担当した仕事が生徒指導。もちろん、理解のある教師でしたよ!しかし、あの先生これを聞いたら泣いちゃうだろうな。それから、助け船を出してくれたK先生、あの時は本当にありがとう。あなたのことは一生忘れません。

 軽音楽同好会は今も健在らしい。ただ、いまだに部活動にはなれないようだ。高校の同級生が母校の教師となり、ある同窓会の席でつぶやくのを聞いてわかった。「軽音には手ェ焼いてんだよな。まったく、あんなサークル誰が作ったんだ?」近場にいた事情を知っている同窓生たちは一斉に僕を見た。僕は笑いをこらえるのに必死だった。というのも、ぼやいているのはそこそこ仲の良かったやつだったからだ。あの時のことは記憶からすっかり抜け落ちているらしい。一段落して言ってやった。「オレ。」「え?」「オレだよ。オレが作った。」「何を?」「だから、軽音だよ。オレが作った。忘れたのか?」しばらく彼は沈黙した。今度は周囲が笑いをこらえている。彼ははっと我に返ると、「お前なあ、なんてことしてくれたんだよ!どんだけ苦労してっかわかってんのか?」だが顔は笑っている。周囲は大爆笑していた。「忘れていたお前が悪い!」なんて、逆に攻められていた。そうか、伝統は健在か。よしよし。