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 文語の語感

 そういえば昨年、少々マニアックなものを購入した。僕の年齢でこれを購入しようとする人は少ないだろう。「美しき日本の歌」というDVD8巻のセット。購入している人は80代以上がほとんどらしい。購入を決めた理由は「故郷の廃家」「故郷を離るる歌」「植生の宿」「夏は来ぬ」の4曲が含まれていたからだ。

 僕は文語の表現が好きで、これはおそらく祖父や父の影響だろう。特に祖父は児童向けの雑誌「赤い鳥」(1918~1936)を全巻揃えて大事に持っていたような人で、時代を見てもわかるように、この本は全て旧仮名遣いで書かれていて、僕は小さい頃、この雑誌に掲載されている童話をかなりの頻度で読んでもらっていた。正直、なかなか無い体験だと思う。そんなこんなで僕もいっぱしの本好き人間に育ったわけだが、いろいろ読んでいくうちに、昔の文学者が書いた文語の文に出会う機会があった。

 当時外国人の書いた詩などは日本の文学者が訳すことが多く、例えばイギリスの詩人ロバート・ブラウニングの「春の朝」を日本の詩人であり文学博士でもあった上田敏が訳したりするのだが、そんな場合、なぜか文語で訳すわけね。「全て世は事も無し」とか。これがまた何ともかっこいい。それで好きになっちゃった。

 それで「美しき日本の歌」なんだが、「此処に立ちてさらばと別れを告げん(故郷を離るる歌)」とか言っちゃうわけで。この語感、好きだなあ。でも時代が進むと、特に小学校唱歌などは不都合が生じてくる。「現代の小学生には意味がわからない」って。そこで歌詞が改編される、ということが起こる。良い例が「春の小川」。1番の「姿やさしく」という歌詞はもともとは「匂いめでたく」だし、「咲けよ咲けよとささやきながら」は最後の部分が「ささやくごとく」だった。オリジナルのまま今も歌われている曲もあるにはある。「故郷(ふるさと)」や「仰げば尊し」などがそうだ。「故郷」なんて、小さい頃は「兎が美味しかったんだ」なんて思ってた。なるほど、確かに問題だ。だけど、漢字で表記してちゃんと説明してくれたらわかると思うんだよ。だからそのための時間をとれば良いのであって。こうした+α的な情報は、子どもの好奇心を高める上でとても重要だ。ただし、僕も教員をしていたことがあるから、今の学校にはそんな優雅なことをやっている余裕なんか無いことはよーくわかっている。でも、これこそが教育だと思うんだけどなあ。確かに受験とか就職とかも大事なんだけど、人生というもの全般を考えたときに、本当に大事なことは何なのかを今の学校教育は見失っている気がする。それはつまり、教養というやつだ。だって、平均寿命を80歳、大学卒業を22歳として計算しても、学業や就職活動から解放された後の人生は単純計算で約60年あるんだよ。どう考えたって学力より教養にウエイトを置く方が利口だと思う。でも考えてみると、その60年を充実させることまで考えて勉強する余裕なんて、今の子どもにはなさそうだ。しかも「教養」という言葉自体、今では死語に近い。「総合的な学習の時間」に「唱歌『赤とんぼ』を読み解く!」なんて授業やったら、当時の時代背景や世俗文化がわかって面白いと思うんだけどなあ。