小さな楽しみ
車での通勤である。遠回りしている。片側2車線の幹線道路があって、距離も幾分近いのだが、どうも風景がつまらない。そこで、水田のなかを通る農道や、用水路沿いの道などを選んで通勤する。すると、季節の移り変わりがとてもよくわかる。あ、山桜が咲いた、とか、稲穂が黄色く色づいたな、とか、ススキが穂を出したな、とか。あぜ道の花などにも気付く。これが楽しい。都市部では絶対に味わえないものだ。
ちなみに家の庭は結構広いが庭園にはほど遠く、まるで雑木林だ。どこからか飛んできた種が芽を吹き、名も知らぬ花が咲くこともある。これも楽しい。虫なんか、探しに行かなくても、むこうからやってくる。散歩も趣味の一つだが、こういった楽しさを拾い集めながら歩く感じだ。車で走っていては気づけないものも、歩くスピードなら気づくことができる。娘とドングリを拾ったり、土筆(つくし)を摘んだりすることもある。さすがにドングリは食べないが、土筆は毎年天ぷらにして食べる。雑草である「アカザ」もおひたしにして食べたことがある。これがまた美味。京の有名店、摘み草料理「なかひがし」の一品をまねたものだ。こうした小さな楽しさの積み重ねが大きな幸福感に繋がっていく気がする。 だが逆の例もある。いつも見慣れていたものが消えていくのだ。例えば、最近近所の林が一部刈り払われ、カラスウリを見ることがなくなった。緑のなかに映える鮮やかな橙(だいだい)色、それが今は見られない。気がつけば近所の墓地のそばにあった大きなケヤキもいつの間にか見えなくなった。大きな木を見ると、時に宗教的な安心感を覚えることがある。おそらく僕だけではないはずだ。特に日本人は昔から大木を神様の依り代として信仰の対象にしてきた。それが今では何のためらいもなく(いや、ためらいはあったかもしれないが)切り倒される。
あのケヤキの木があったところは整地され、今では立派な一軒家が建っている。人の土地のことだから何も言えないが、ちょっと残念な気がする。