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 「勝利への賛歌」

 前回書いた記事でちょっと触れた「勝利への賛歌」という歌。「死刑台のメロディー」という、1920年にアメリカのマサチューセッツ州で起こった、有名な冤罪事件をモチーフにしたイタリア映画の主題歌であったことはすでに書いた。「サッコ・ヴァンゼッティ事件」。調べてみました?強盗殺人の疑いをかけられた二人のイタリア移民、サッコとヴァンゼッティはアナキスト(無政府主義者)で、第一次世界大戦ではアメリカでの徴兵を拒否している。つまり移民であるだけでなく、当局からは政治思想についても目をつけられていたということだ。

 二人の裁判は確固たる物的証拠も無いまま、当局の筋書きどおりに進んでいく。雇われた目撃者に偽証させた、という話もある。真犯人に繋がる物的証拠を当局が隠蔽した、という話もある。要するに、マイノリティやコミュニストに対する見せしめのための裁判だった、ということらしい。弁護側の主張はことごとく退けられ、市民の大々的な抗議活動も、国際的な世論も状況を変えることはできず、結果、二人は逮捕から7年後に死刑に処せられた。これが1920年から1927年にかけて起こったこと。この時代は「狂騒の20年代」と言われており、アメリカでは自動車やラジオが普及し、ニューヨークなどの大都市では摩天楼の建設が急ピッチで進められた。「富めるアメリカ」。そんななかで起きたサッコ・ヴァンゼッティ事件は,まさにアメリカの暗部と言っていいだろう。

 事件から50年後、1971年にはイタリア映画「死刑台のメロディー」が製作された。そう、イタリア映画。おわかり?そしてこの映画の主題歌が「勝利への賛歌」だったわけだ。

 「勝利への賛歌」はエンニオ・モリコーネが作曲し、当時の反戦フォークシンガー(反戦ったって、ベトナム戦争だけど)、ジョーン・バエズが作詞して歌った。たった4行の、二人を追悼し,たたえる詩。それが印象的なメロディに乗って延々と繰り返される。当時日本でもそこそこヒットし、ラジオ等で流れていたのを僕も覚えている。そして二人の処刑(1927年)から50年を経て、1977年にマサチューセッツ州が当時の裁判の違法性を認め、二人の無実を宣言したという。何ともやりきれない話だ。

 これとは別に、1950年代になると、同じくアメリカで共和党のマッカーシー議員の告発に端を発し、共産主義者であるという疑いだけで多くの有名人や軍人までもが攻撃された。詳しくは触れないが、ほとんど狂気。どんだけ共産主義怖いんだ、と思う。1954年6月に開かれた陸軍に関する公聴会はTV中継され、このなかであまりにも侮蔑的なふるまいをするマッカーシー議員に対して、陸軍側の弁護人が「君、ちょっと話を止めて良いかね?・・・もうたくさんだ。君には品位というものが無いのかね?」と戒める映像が残っている。最近NHKのドキュメンタリー番組で使われていたので、見た人もいるだろう。

 この歳の暮れに、上院で「上院の品位を損ね、批判を生む行動をした」との決議が採択され、マッカーシーは事実上失脚するのだけれど、その後も彼の支持率は50%前後を維持し続けたという。なんか、どっかで聞いたような話だな。

 言うまでもなく、アメリカは民主国家である。だが、やっていることを見ると、スターリンやヒトラーとあまり変わらないところがある。保守派という言葉があるが、その一部はほぼ極右。下手をすると国粋主義やファシズムに近いふるまいをすることもある。民主主義を謳いながら、共産主義を恐れるあまり、結果としてスターリン政権下のソヴィエトみたいなことが起こる。権力を手に入れたらみんな同じ、ということなのだろうか?だとしたら、イデオロギーっていったい何なんだろう。

 今年(2021年)アメリカの新大統領が誕生したが、政権交代の前後にも似たような状況があった。「学ばねえ国だな」と思ったが、すぐ考え直した。もしかしたら、これこそがアメリカなのかもしれない。

〈参考 ウィキペディア「マッカーシズム」「ジョセフ・マッカーシー」〉

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「闘う」ということ

 最近CMで中島みゆきの「ファイト!」をよく聞く。1983年のアルバム「予感」の中の1曲。当時とても好きだった曲で、何度も繰り返し聞いた覚えがある。それが今、CMソングとして流れている。嬉しい。自分の時代がまだ終わってない、という気がして嬉しい。プロデューサーの誰かが持ち込んだのだろうが、この歌の価値観が今も通用していることが嬉しい。

 昔、一時教員をしていた頃、生徒たちにこの歌を紹介したことがある。僕が紹介したのは、「闘う君の唄を 闘わない奴等が笑うだろう(歌詞カードより)」という、まさにCMで使われている一節だ。「そんな奴等を気にするな、放っておけ。闘うか闘わないかは自分自身の問題なんだから」そんなことを話したと思う。平成の時代に、頷きながら真剣に聞く生徒が多くてびっくりした記憶がある。

 アンドラ・デイという女性歌手がいる。何でもレトロ・モダンとか言うジャンルのソウル(?)シンガーなのだが、彼女の2016年のアルバム「チアーズ・トゥ・ザ・フォール」には「ライズアップ」という名曲がある。こちらには「そして私は立ち上がる あの日のように 何度でも 私たちは立ち上がって見せる 恐れずに あの波のように高く」という一節がある。かっこいい。かっこいいだけでなく、彼女が黒人シンガーであることを考えると、今のご時世、とても意味深長に思える。この「私」あるいは「私たち」も、あきらめずに闘い続ける側の人たちだろう。

 この2曲は、どちらも人生を闘う人たちの歌である。ただし、「ファイト!」は闘う人を見守る第三者の視点で歌われる。だが僕が思うに、この歌における主体は自分も闘っているか、あるいはかつて闘っていた事のある人物だろう。では、人はなぜ闘うのだろうか。

 闘いには二つの種類があって、一つは勝敗を決するための闘い。戦争はこれにあたる。スポーツの試合なんかも含まれるといっていい。勝敗が決すれば、その闘いは終わる。そしてもう一つが、闘い続けること自体に意味がある闘い。以前に紹介した映画「バニシング・ポイント」や「暴力脱獄」の主人公たちの生き様はこれだろう。自分が自分として存在し続けるための闘い。映画では、主人公はどちらも死んじゃったけど、それは「屈しなかった、負けなかった」ということなんだと思う。そしてそこには勝利という概念が存在しない。もともと勝ち目のない相手に闘いを挑み、それでも負けないために闘い続けている、と言ってもいい。「ファイト!」に登場する魚たちは鱗をはがされながらも流れに逆らって泳ぎ続ける。そして「諦めという名の鎖を 身をよじってほどいてゆく(歌詞カードより)」。

 意味合いはちょっと違うが、大昔の歌で文字通り「勝利への賛歌」というのもあったっけ。ジョーン・バエズ(現在80歳、まだ歌ってるみたい)という、アメリカのフォークシンガーが歌った。「死刑台のメロディー(1971年公開)」という、1920年に起こったアメリカの恐るべき冤罪事件をモチーフにした映画の挿入歌。「正義とは何か」を問う内容の映画であった。これも良い曲だったなあ。ちなみに作曲はエンニオ・モリコーネだったんだって。なんか、急に思い出してしまった。ところで、僕はこの歳になっても闘う側に立ちたいと思っている。笑われても良い、それでも死ぬまで闘う側の人間でいたいなあ。

※「恐るべき冤罪事件」とは1920年にアメリカのマサチューセッツ州で起こった「サッコ・ヴァンゼッティ事件」のこと。被告のイタリア移民サッコとヴァンゼッティが証拠も曖昧なまま強盗殺人の罪で逮捕され、7年後に死刑に処せられた。50年後の1977年にマサチューセッツ州知事が、「裁判は偏見と敵意に満ちていた」事を認め、二人の無実を公表した。「マッカーシズム」と合わせて検索すると、アメリカが嫌いになるかも。