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 遠方からのたより

 12月の初め、多分3年ぶりぐらいに、一番仲の良い叔父と叔母から電話があった。それは三日前に出したスケッチ入りの手紙の返信でもあったのだけれど、いつものようにはがきで返信があると思っていたので、ちょっと驚いた。叔父は92歳、叔母は86歳になったそうだ。この二人は僕がブログのために書きためた、230編を超える原稿を全て持っている唯一の人物でもある。いや、実をいうとさすがに文章を読むのが億劫になってきたと言うので、今年の分はまだ送らずにいたのだけれど。

 この二人は県を二つ跨いだその向こう(距離にすると400キロぐらい?)というかなり遠方に住んでいるのだが、服装など大変ハイカラで、僕がちょっと憧れを抱くような個性をもっている。例えば叔父は自分が「楽しそう」と思ったことには何にでも手を出し、しかもそれなりにこなしてしまう器用なところがある。車好きながら、自分のことを「死ぬまで新車に乗れなかった男」と称し、92歳になった今は、自分の足で1日に3時間も歩くそうだ。さらに聞いた話では、若い頃台湾に出向し、出先で会社を一つ潰したにもかかわらず、平気な顔で帰ってきたという。まあ、これがどこまで本当の話かは、本人に聞いたことがないのでよくわからない。何にせよ、伝説は伝説のままにしておくのが一番だ。

 では叔母はどうかというと、ベレー帽なんぞを粋にこなすなど、見ようによっては皇族の端っこあたりに籍を置いていそうなファッションセンスをもち、朝食にアニメ「カリオストロの城」でカリオストロ伯爵が食べていたのと同様に、半熟のゆで卵を卵立てにのせて出したりする。言っとくけど、これって50年近く前の話ですぜ。また、初老と言われる年齢あたりから点字の修行をして、これをモノにした後、長いこと書物を点字に翻訳する活動にいそしんでいたらしい。しかし僕にとってはそんなことより、今までに知った全ての女性のなかで、唯一カタカナで「オホホ」と笑う人物であることの方がよほど価値がある。だって、ホント、いないよ?そんな人。

 今回僕が二人に手紙を書いた理由は、ふと思いついて、二人が住むマンションの周辺をストリートビューで散策し、風景をスケッチしたものを送ろうと考えたからだ。文章を読むのが疲れる、ということだったので、じゃあ今回は原稿じゃなくてスケッチだ!というわけだ。実際、電話で話している間もストリートビューを開いて、「なるほど、ここで日々の買い物をしてるんですね」であるとか、「え、この道が散歩道なの?『通り抜けできません』の立て札があるところですよね?あぜ道じゃないですか」などと、楽しく会話することができた。すごいぞストリートビュー。この使い方、もっと早く気付くべきだった。

 いろいろ書いてきたが、実はこの記事のお題は他にある。それは電話中に叔母が放った一言だった。「私は足がダメだから出かけることもできないの。厭になっちゃうわ」と言った後に、「でも私なんかまだヒヨッコで・・・」と続けたのだ。先ほども書いたように、叔母は御年86歳。それがヒヨッコなんだって。かなわんなあ。それじゃあ僕なんか、卵の中の細胞四つぐらいじゃないか。いや、八つかな?まあ、そんなことはどうでもいいんだけど、それを聞いて僕は、昔TVで見たある老人の言葉を思い出した。その老人は、レポーターの「今、おいくつなんですか?」という問いかけに、「俺?たったの90歳。」と声高に答えたのだった。もう10年近く前のことだが、なぜか今でも忘れられない。老いは仕方のないことだ。だが気持ちは文字通り、持ちようで何とかなる。先達に学ぶことは多いなあ。

 そういえば叔父はこの頃、ごくまれにだが、気弱なことを書いてくるようになった。それがちょっと心配だ、と叔母に伝えると、事もなげに「そう?甘えてるだけなんじゃないかしら」と言い放ち、いつののようにオホホ、と笑った。なんだかとても安心した。うん、やはり叔母の方が一枚上手、という気がするな。

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 バタークリームとアンズジャム(12/26)

 さて、今年も我が家のクリスマスパーティーが無事終わった。物価高騰の折、金を掛けずに見てくれだけでも華やかにと思い、今年は定番のラムチョップに加えてローストポークを調理した。これをハニーマスタードソースで食べると結構イケるのだ。それに北欧ではクリスマスにローストポークは定番だから、文化的にも間違っちゃいない。さらに市販のチキンレッグとローストビーフを例年より少なめにして、代わりにスモークサーモンをマリネしてサラダ仕立てにして出した(これはカミさんが担当)。よしよし、これで何千円か節約できたぞ。

 ケーキはこれまたいつもの、次女が作るバタークリームケーキと、僕が担当の「白い」ブッシュドノエル。これは生クリーム仕立てで、中にダークチェリーを入れてある。加えて今回はチョコレートクリームのブッシュドノエルも作った。これは例年だと市販品枠だから、これでさらに節約できる。何、ケーキが多いって?いいんです。何しろ3家族が集まって、お持ち帰りも恒例だからね。だけど正直なところ、子供たちが成人し、大人たちが老いてきたので、来年は全体的に量を減らした方が良いかもな、というのが今年の実感だった。もっとも、孫ができれば状況はまた変わるだろうけど。

 今年はシャンパンも少し格を下げたので、結果的に例年の6~7割程度の予算で見た目には変わりない、というかより豪華に見えるパーティーを演出することができた。うーん、1970年のミュージカル映画、「スクルージ」に登場するボブ・クラチット(※)から学んだことは多いぞ。

 クリスマスが終わり、今日は26日。今年ももう残り少ない。晴れ渡った空を眺めながら、おやつ代わりに食べ残しのバタークリームケーキをつついていたら、なんだかいろいろなことが頭に浮かんできた。

 娘の作るバタークリームはそれこそ昭和の時代、子供だった頃に食べた味そのままで、ケーキやチキンレッグを買った当時のデパ地下の様子や、家に飾ってあった生木のクリスマスツリー、ボール紙と銀紙で作られた安っぽいツリー飾りなどが思い出される。そういえば、当時のガラスオーナメントは文字通り本物のガラス玉(特に高級品というわけではなくて、それが普通だった)で、下手に扱うと簡単に割れてしまうような代物だったなあ。それにケーキは当時、バタークリームの方が一般的だった。苺のショートケーキもあることにはあったが、それは高級品で、家計にとって幸いなことに、僕は色とりどりに飾られたバタークリームケーキの方が好きだった。挟んであるのはアンズジャムで、良くも悪くも甘ったるいバタークリームの味をアンズの酸味が上手く緩和していた。これはおそらく、当時の菓子職人がザッハートルテのレシピから学んだんだろうな。だとすれば、単に安く上げる手段ではなく、ちゃんと味のルーツがあったって事だ。

 母がクリスチャンだったこともあって、子供の頃のクリスマスはまるで夢のようだった。おそらく子供を楽しませるためにいろいろと工夫してくれたんだろう。今ならそれがわかるし、自分の子供たちにも同じようにしてきた。その娘たちも今は29歳と24歳。家族に「子供」がいなくなったので、クリスマスは少し寂しいものになったが、上の娘が今年の夏に結婚したから、じきにまた賑やかなクリスマスが戻ってくるだろう。その時新しく両親になった二人が、どこまで我が家のクリスマスを受け継いでくれるかはわからないけれど。

※ 映画「スクルージ」の原作は言わずと知れた「クリスマス・キャロル」。ボブ・クラチットは「スクルージ&マーレー商会」で働くたった一人の従業員で、子供たちに安月給を感じさせないように、口八丁手八丁で豪華なクリスマスを演出する。

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 星に願いを

 TVでディズニー100周年を記念する番組を見た。主にアニメ映画にスポットを当てた、なかなか良い番組だった。ただ惜しいことに、放送時間はたったの45分。こういう番組こそ、90分枠で制作してほしかったなあ。

 ディズニーの映画といえば、実写も含めておとぎ話の要素が強く、最近ではSFチックなものも多い。これはまあ、イギリスのハードSF作家であった故アーサー・C・クラーク曰く、「科学技術が申し分ない進化を遂げれば、それは魔法と見分けがつかなくなる」ということだから、ちょっと乱暴だがひとくくりに考えても良いだろう。でも余談ながら、魔法やおとぎ話を駆逐してきた科学の行く末が「魔法と見分けがつかない」という発想は、これはこれでちょっと楽しいかも。

 さて、ディズニーのアニメは子供に夢を与え、大人には自分が子供だった頃への郷愁を与え続けてきた。昔の子供は願い続けていれば夢が叶うかもしれない、なんて本気で信じていたに違いない。だが最近の子供は、物事の裏側をちゃんと理解していて、「日本語版の主人公の声は○○が当ててるんだって」「あ、○○が出てるんなら見ようかな」なんて言い出す。いやいやいや、そういうことではありますまいよ。

 そこでちょっと気付いたことがある。それは今の世の中って、なんだか大人と子供の境が曖昧になってやしないか、ということだ。例えばサンタクロースの存在をどこまで信じるか、という命題一つとってみても、そんなもの鼻から信じない、人生に疲れた大人みたいな子供が増えているんじゃないか。考えてもみてくださいな。一時(いっとき)でもサンタを信じた経験のある子供は、後々その時の期待に満ちた感情や、何かを信じようとする心を思い出すことができるんですよ。でもサンタの存在を信じることなく大人になった人にはそれができない。これって、ちょっと寂しくないですか?

 加えて最近、他人の揚げ足をとるような言動をする大人が増えてきた。映画を作る側も批判を恐れてか、オリジナルのイメージをぶち壊すような演出をあえてすることがある。またしてもサンタの例で恐縮なのだが、最近の映画では黒人がサンタだったりすることがあるのだ。登場するキャラクターの人種に偏りがあってはいけない、なんて意見があるからだそうだ。だがよく考えてみてほしい。サンタクロースの起源がローマ帝国近隣地域の司祭セント・ニコラウスであることを念頭に置けば、サンタが黒人ということはまずあり得ない。東洋人にしても同じ事だ。大人の都合でオリジナルの概念をぶち壊してどーすんだよ、なんて思ってしまう。

 そんな大人が作った社会の中で育つ現代の子供は、なんだかかわいそうな気がする。考え方自体が制限されることに慣れてしまって、反抗期を持たない子供も増えているそうだ。これは単に良い子に育ったわけではなくて、大人の顔色をうかがうことに長けているだけなのかもしれない。そんなの、もう子供じゃないでしょう。絶対どこかに歪みが生じるはずだ。そして反抗期が遅れてやってきたような大人げない大人が、世間を騒がす馬鹿みたいな事件を起こす。そんな気がしてならないんだけど。

 ところで僕が一番好きなディズニーアニメは、なんといってもピーターパン。大人になりたくない子供たち、というコンセプトにも、大人の代表のようなずる賢いフック船長と、その片腕ながら心根は優しいスミー君の存在にも、何か深いものを感じる。そして何よりも、夢の世界から帰ってきた子供たちが、月光に照らし出された帆船のような形の雲を指さし、「あの船に乗って帰ってきたんだ!」と主張するのを聞いて、お父さんがそれを否定することなく「いや待てよ!父さんも昔、あの船を見たことがあるぞ!」と叫ぶシーン。それを見てお母さんが嬉しそうに微笑む。なんて優しい大人たちなんだろう!いや、もしかしたらこのお父さん、小さい頃本当にネバーランドに行ったことがあるのかもしれない。そしてそのことを今も忘れていないのかも。

 僕は思う。子供は子供として生きる時間を保証されるべきだ。子供時代に育まれた思いや憧れは、大人になって現実というものを知った後も、生きる上での力になるからだ。ウォルト・ディズニーがやってきた仕事って、そういう事なんじゃないのかなあ。え?じゃあ、大人はもういいのかって?いやいや、大人だってディズニーの映画見るでしょう?時には何かを信じて、星に願いを掛けてみたっていいんじゃないですか?だって、そもそも「星に願いを」掛けたのはピノキオを作ったゼペットじいさんなんだし。何、今まで何度も願掛けをしてきたのに、叶ったことは一度もないって?だからって次も叶わないとは言い切れないでしょうが。何かを信じるとは、つまりそういうことですよ。

「星に願いを」はディズニーの長編アニメ映画「ピノキオ(1940)」の主題歌。

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 あの頃のクリスマス

 もう20年以上前のこと。日本にクリスマスブームが到来したことがあった。それは数年にわたって続いたが、声高に宣伝されていたわけではなかったから、そのことに気づかずにいる人も多いのではないだろうか。

 当時、TVではクリスマスに関するドキュメンタリー番組が何本も放送され、WOWOWでは毎年のようにクリスマス映画特集が組まれた。また、書籍もクリスマスをより一層楽しむためのMOOK本や、クリスマスについて掘り下げた内容のものが数多く出版された。

 特にTVのドキュメンタリー番組は国際共同制作のものなどもあって、かなり充実した内容のものが多く、多分より多くの日本人がこの時にセント・ニコラウスの逸話やドイツのクリスマス菓子であるシュトーレンを知り、ツリーを飾る伝統がドイツからイギリスやアメリカへ持ち込まれ、さらに日本に輸入されたことを知り、今や世界中で歌われているクリスマス・キャロルの名作「きよしこの夜」がいかにして生まれたかを知った。また、それまでクリスマスケーキと言えば苺のショートケーキがメインだったのが、ブッシュドノエルという正統派クリスマスケーキ(といってもフランスでの話だが)や、よりクリスマスらしいチョコレートやラズベリーを使った創作ケーキの台頭で、巷のクリスマスケーキカタログがより一層華やいだものへと変わっていった。平行して、ショッピングモールやデパートでは特設の大きなクリスマスコーナーが設けられ、そこには今まで見たこともなかったような本格的なクリスマス・オーナメントや華やかなグッズが所狭しと並べられた。

 当時、僕の住む地方都市の駅ビルには巨大なクリスマス・リースが掲げられ、夜になるとライトアップされた。複数あったデパートの通りに面した壁面には、競うようにイルミネーションが瞬き、我が家ではクリスマスが近づくたびに、「夜の大冒険」と称してまだ幼かった娘たちを夜の街へと連れだし、市内のイルミネーションを見て回ったり、ちょっとした買い物や外食を楽しんだりしたものだ。あの頃の僕は、こうした状況を見て日本のクリスマス文化が進化したのだと考えていた。だが今になってみれば、それは単なるブームに過ぎなかった。そしてブームはいつしか去って行く。

 「不景気」という言葉があちこちで囁かれ、駅前にひしめいていた「丸井」「西武」「高島屋」が次々と姿を消し始めた頃、駅ビルのクリスマスツリーもいつの間にか見られなくなり、当時広々としたフロアの1/5ほどをさいてクリスマスコーナーを設置していた近場の「ジョイフル2」は、今では入り口の脇に小さなコーナーがあるだけだ。とうとう市内唯一となってしまったデパートに入っている「ロフト」のクリスマスコーナーもかなり小さくなり、隣にはもう正月コーナーが設置されている。このクリスマスと正月を同時に済ませてしまおうという傾向はどの商業施設を見ても同じで、例えば今手元にある某有名スーパーのクリスマスケーキのカタログなど、左開きの6ページだけがケーキカタログで、残りの右開き24ページはおせちのカタログになっている。あの頃は、ケーキとおせちは別の冊子で出ていたはずだ。さらに細かいことを言わせてもらうなら、クリスマスカードも最近新商品をあまり見かけないし、クリスマス用の包装紙のデザインも、ごく一般的なものばかりになってしまった。でもものは考えようで、「シュトーレン」は今やベーカリー店の定番だし、「ブッシュドノエル」も洋菓子界での市民権を得たようだ。加えて、毎年日本のどこかしらでは「クリスマス・マーケット」が催されているようだから、そうそう悲観することはないのかもしれない。

 今年ももうすぐクリスマス。我が家のリビングの飾り付けは今も何ら変わらない。あの頃手に入れた質の良いクリスマス・オーナメントはこれからも長く使えそうだし、もし壊れても修理すればいい。素敵なデザインの包装紙の切れ端は、それこそ思い出のかけらのようにコレクションしてある。そういったグッズを1年ぶりに取り出すたび、不景気な時代こそ心は豊かでありたい、なんて思うのだ。

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 12月8日

 12月8日。何の日か知っているだろうか。サンタクロースの起源と言われているセント・ニコラウスの日?それは12月6日だ。じゃ、真珠湾攻撃の日?そう、確かにそれも正解。だけど僕が今日紹介したいのは、もっと新しい話だ。

 ジョン・レノン。言わずと知れたビートルズのメンバーの一人だ。彼はビートルズが1970年に解散する以前から積極的にソロ活動を行っていて、平行して1955年から続くベトナム戦争への反戦運動にも参加し、1968年にはシングル「平和を我らに」を発表している。さらに1971年にはあの伝説的なアルバム「イマジン」を発表。美しいメロディーに乗せて「いつか君も仲間になってくれたら 世界は一つになるだろう」と語りかける歌声を、多くの人々が今でも記憶しているはずだ。その年の12月にはシングル「ハッピークリスマス」を発表し、ここでも「君が望みさえすれば 戦争は終わる」と歌っている。彼とその仲間のもとには多くの若者がはせ参じ、声高に戦争反対を訴えた。だが南北ベトナムが事実上の終戦を迎えるには1976年まで待たなければならなかった。

 ジョン・レノンはその後5年近く音楽活動を休止し、1975年に生まれた子供の育児に専念。1980年11月に満を持してアルバム「ダブル・ファンタジー」を発表する。このアルバムは今までのような思想的な色合いはなく、ジョンが初めて純粋に、自分自身に目を向けた内容の曲が多かった。英・米・日で第1位を記録し、このアルバムから「スターティング・オーヴァー」など多くの名曲が生まれた。「翼を広げ もう一度最初から始めよう」・・・だが彼が新しい何かを始めることはなかった。翌月の12月8日22時50分、ジョン・レノンは自宅アパートメント前の路上で、ファンを自称するマーク・チャップマンの放った凶弾に倒れ、30分後に死亡が確認された。40歳だった。僕にとって12月8日とはそういう日だ。

 今東欧ではウクライナとロシアの戦争で多くの人命が奪われている。パレスチナ・ガザ地区でのイスラエルとの紛争も同様だ。だが平和を訴えるカリスマはもういない。あの時ジョン・レノンの呼びかけに共鳴した世代は老人になりつつある。「イマジン」の持つメッセージが生き続けたとしても、人の記憶はいつしか思い出にすり変わっていく。しかも今の若者たちには、当時のような連帯感など微塵も感じられない。それは彼らの責任ではなく、時代が人の心を変えたのだ。もしジョン・レノンが生きていたら、この世界を見て何と言うだろうか。もっとも、「ダブル・ファンタジー」以降の彼に何かを期待するのは酷というものかもしれないが。

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 食通と食道楽

 「ここのシェフほどの料理人が、鴨肉のロティにオレンジではなく、あえてブルーベリーのソースを添えるというのなら、我々としては黙ってそれを味わうべきだ。」

 これはある書物(※)に登場する、架空のワイン通の言葉だ。スノッブで厭な性格だが豊富な知識と経験を誇り、誰も彼を論破できない、というキャラクター。彼のこの一言で、「鴨にはオレンジソースが常識だろう」と不平たらたらだったワイン仲間が瞬時に押し黙る、という場面だ。この文章を読んで、「食通も大変だなあ」と思った。僕は食べるのも作るのも好きだが食通ではない。いわゆる「食道楽」というやつだ。あの店の味がわからなければ食通とは言えない、なんて縛りはない。どんなに有名な店であろうが、「ここの味付けは甘すぎる」だの、「このカニで金を取るのか」だのと、心の中では言いたい放題である。で、どうせならもっと自分好みのものが食べたい、ということで、「実技」にも手を出す。勿論一流の料理店と同じ食材が手に入るわけもなく、見よう見まねでは店の味にかなうはずもないのだが、そこは食道楽、楽しく料理して美味しいと思えるものができあがればそれでよい。そんなふうだから僕はなんちゃって料理も得意である。「この味は多分こんなふうにして出してるんだろうな」という、かのケンタロウ氏(早く良くなってくださいね)が得意の妄想料理。これがまた楽しい。もう遊びですよ、遊び。例えばうちで鴨をローストした時に添えるのは定番のオレンジソース。材料はフォンドボー(市販のもの)、赤ワイン、蜂蜜、コーンスターチ、鴨の肉汁(余分な油を取り除いたもの)、そしてオレンジの絞り汁。これがなかなかイケるのだが、実を言うとこれは想像で作ったオリジナルで、本当の作り方を僕はいまだに知らない。それでもみんなが美味しいと言ってくれるので、僕としては大満足だ。もう一つ良い例がある。

 スコーンに添えるクリームといえばクロテッドクリームが定番だが、初めてうちでスコーンを焼いた時、僕は自前で、しかもイメージだけでそれを作ってみたことがある。主な材料はサワークリームとバター(有塩)、そして少量の砂糖。勿論、クロテッドクリームとは似ても似つかない味だ。だがなぜかこれが家族にウケた。後に本物のクロテッドクリームを試す機会もあったのだが、「甘すぎる」という理由で余らせてしまった。家族は今もこの「なんちゃってクリーム」の方がお好みのようだ。

 要するに、僕にとっては趣味の料理イコール食道楽、もっと言えば遊びなのである。せっかくだから、ここでとっておきの超Z級オリジナルグルメを紹介する。ただしチーズ嫌いの人はダメ。

 まず味噌汁を作る。ナスか長ネギがいい。どちらの場合も具が軟らかくなるまで煮る。味噌は僕の好みで言うと、ここは麹味噌でいきたい。次にチーズを用意する。普通のプロセスチーズ。あのバターみたいなサイズで売ってってるやつだ。なければベビーチーズか丸いパッケージの「6P」とかでもまあいいでしょう。色気を出してとろけるチーズとかモッツァレラとかを使ってはいけない。チーズは1センチ角ぐらいに刻んでおく。量はまあ適当で。

 味噌汁ができたら、チーズを好きなだけ入れてしばらく置く。すると熱でチーズが柔らかくなってくる。ここでもしとろけるチーズなんて使ったらどうなるかわかるでしょ?チーズはあくまでも食感が残っていなければならない(そんな大した料理か?)。

 チーズが柔らかくなったら熱々のご飯にこれを味噌汁ごとかけて食す。猫舌の人や夏場だったら冷や飯にかけてもよい。この料理(?)を教師時代に中学生に教えたら、親も含めてほぼ100パーセント「おいしい!」という反応だった。苦笑してしまったのは、親に「そんなはしたない食べ方よしなさい」と止められたという生徒が結構いて、なんだかかわいそうになってしまった。汁かけ飯は日本の伝統食だぞ!冷や汁の立場はどうなる!だがそんな親でも多分、深皿に盛りつけて「ナスとチーズの和風リゾット味噌仕立て」とか名前をつけて出したら、何も考えずに普通に食べるんだろうな、なんて思った。ついでに言うと、「冷や汁」のトッピングとしてもチーズはよく合う。この場合、面倒だがより小さく刻んだ方が良い。熱で柔らかくなる過程がないから、大きいとチーズが主張しすぎる。

 ちなみに僕は、ご飯の上にコロッケを載せて味噌汁を注ぎ、崩しながら食べるのも好きだ。コロッケは甘みの少ないポテトとタマネギと挽肉(できれば豚100パーセント)だけのシンプルなものがいい。ここ、結構大事です。

※ 「ワイン通が嫌われる理由(わけ)」 レナード・バーンスタイン著(バーンスタインといっても音楽家とは別人)時事通信社 1996年

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 食の東西対決

 僕は関東に住んでいる。だけどすき焼きは関西風が好きだ。ザラメと醤油のみで味付けする。ある時TVでその調理法を知り、試してみたのだが、すっかり気に入ってしまい、以来関東風には戻れなくなってしまった。関東風は割り下を使うので、「すき焼き」とは言うものの、むしろ「鍋」に近い。これは多分、「牛鍋」の存在が影響しているのだろう。

 ウナギの蒲焼き、これも関西風の方が好きだ。蒸しの工程を含まず、しっかりと小骨まで焼き上げるスタイルだ。柔らかすぎない食感がいい。京都に行った時に、錦市場にある店でお土産に買い込んでくるのだが、地元ではなかなか手に入らないので、普段は関東風を食しているというのが現状だ。だが正直なところ、すき焼きほどのこだわりはない。どちらかと言えば、という程度のものだ。

 考えてみると、桜餅も関西風の方が好きだなあ。小麦粉を焼いた皮よりも、あの「道明寺」のもっちり感が好きだからだ。ちなみに僕は桜の葉は剥がして食べる。葉を一緒に食べるのが通、という説もあるが、どうも怪しい。というのも、店によっては2~3枚の葉で包んであったりするからだ。これでは何を食べているのかわからんではないか。そこはやはり、香りだけを楽しむのが粋なようだ。

 ところで、僕はすべてが関西風好みというわけではない。例えば、雑煮は関東風がいい。醤油仕立てのだしに焼いた角餅を入れ、鶏肉やかまぼこ、三つ葉などを具に使ったあれだ。京都風の、甘めの白味噌仕立てなんて言われると、箱根の山の向こうまで逃げ出したいぐらいだ(近づいてるじゃんか)。

 一番判断が難しいのは蕎麦。江戸前の蕎麦つゆは、それを持って関東風とは言いがたい。じゃあ、どこの蕎麦が関東風かというと、これはこれで釈然としない。間を取って、長野県あたりで食べる蕎麦が一番美味い、ということにしておこう。うどんについては、これは蕎麦とは似て非なるもので、つゆの味は何といっても四国あたりにとどめを刺す。

 話を世界に広げて、今度は洋の東西。ウィーンの銘菓、ホテルザッハのザッハトルテは、我が家では国産の「デメル・ジャパン」のものがお気に入りだ。というか由緒正しいザッハトルテはこの店のものしか手に入らない(※)。

 「デメル」の本店はウィーンにある菓子店で、創業は1786年。その昔、ザッハの子孫から販売権を買い取ったとして、ホテルザッハとどちらが元祖か裁判で争ったこともある。結果はレシピを考案したホテルザッハの勝利。そのホテルザッハのものを現地で食したことがあるが、日本人には少々甘すぎる気がした。だがあえて言うと、デメル・ジャパンのものはアンズジャムの酸味が「元祖」に比べて弱い。それもそのはず、ジャムの層が1層しかないのだ(これがデメル製の特徴の一つ。ホテルザッハのものは2層で、このスタイルがオリジナルと言われている)。

 もう一つ、デメル・ジャパンのものはコーティングのシャリシャリ感もあまり感じない。ウィキペディアによれば、コーティングは純粋なチョコレートではなく、「チョコレート入りのフォンダン(糖衣)」ということだから、もう少しそれらしい食感があっても良さそうだ。要は好みの問題だが、それだけに何とも悩ましいところだ。

 ところでもうお気づきだと思うが、もし日本で売られているデメル・ジャパンのザッハトルテが、日本向けの味ではなくオリジナルレシピで作られているとすれば、「洋の東西対決」は成り立たないことになる。むしろホテルザッハVSデメルと言うべきか。でもまあ、それはそれということで。

※ 実はホテルザッハも通販を行ってはいるのだが、日本向けのページがあるわけでもなく、文面はすべて英文(独文?)で、気軽に購入するにはちょっとハードルが高い。

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 スタンド・バイ・ミー

 「スタンド・バイ・ミー」。好きな映画の一つだ。ある作家が自分の少年時代について回想するシーンから始まり、その後、彼が記憶をたどりながら書き綴る少年時代を描いていく。所々に散りばめられたモノローグが、彼にとって、当時の友人たちとの関わりがいかにかけがえのないものであったかを物語る。僕にとっては、高校時代がそうだった。

 昨年だったか、「二人乗り」という記事を書いていた時、当時付き合っていた彼女のこと以外にも多くの記憶がよみがえってきたのだが、そのなかには、一緒に行動していた仲間たちのことも数多く含まれていた。実を言うと、一番最初にUPした「あの時と同じ空」と高校の軽音楽同好会について書いた「オレが作った」は、「二人乗り」とほぼ同じ頃にあったことを書いている。どちらもその頃の仲間たちについてのエピソードだ。

 僕は高校時代、自分が創設した「軽音楽同好会」の運営に明け暮れ、美術部と文芸部にも在籍し、3年生になる頃には、そのほかに居心地の良い「仲間」のグループがあった。「軽音」とこの「仲間」は境界が曖昧で、一緒に行動することもよくあった。「あの時と同じ空」に登場するKは、そんな「仲間」の一人だ。「続 二人乗り」で僕と彼女を「安心して見ていられる」と言ってくれたのも、こうした「仲間」の一人であるSだった。この二人は当時、同じ一人の女子生徒に好意を持っていた。その女子生徒は僕の彼女の友人で、「仲間」の一人でもあったから、その関係は傍目にはなかなかにスリリングではあったが、不思議ともめたことはなかった。僕の彼女は勿論「仲間」の一員で、僕と同様に美術部と文芸部に所属し、「軽音」のメンバーとも仲が良かった。Kは卓球部に所属していたが、なぜか部活動の友人より僕たちといることの方が多かった。僕は美術部の部長と文芸部の副部長を兼任し、最も親しかった「仲間」の一人は生徒会会長をしていた。彼は文芸部の部長でもあり、「軽音」にも所属していた。その「軽音」の初代会長がこの僕である。もう一回言おうか?

 僕と彼女は、いつも二人だけで帰っていたわけではなくて、こうした連中と一緒に帰ることの方が多かった。ことに部活を引退してからは、母校が県下で一、二を争う進学校であったにもかかわらず、僕らだけは「受験勉強って何?」というノリで、時には喫茶店にしけ込み、レコード店や書店で暇を潰し、時には当時よくあった軽食屋で、流行り始めたばかりのピザを夕食代わりに食べて帰ることもあった。僕が見つけた駅までの気持ちの良い裏道を、土曜日の放課後(当時は週6日制で午前中に授業があった)などに皆で長い時間を掛けて歩いたことも何度かある。会えばいつも取り留めのない話で盛り上がり、恋の悩みを打ち明けたり打ち明けられたり・・・。まるで絵に描いたような青春時代だった。

 僕は大学の同窓会には一度も出たことがないが、数年おきに開かれる高校の同窓会にはほぼ毎回出席している。「オレが作った」の後半のエピソードはそんな中で起こったことだ。ある時、その同窓会で久しぶりに会ったSに、「お前が変わってなくて、俺は嬉しいよ」と言われたことがあった。確かに60~70年代のロックを信奉し、反体制のスタンスだった僕が社会に飲み込まれてただの人になっていたら、当時の仲間を失望させたかもしれない。これは驕(おご)りではなくて、実際に周りを見回すと、男どもの多くは規格品のように同じ顔をしていたし、早々と髪の毛を失い、人相が変わってしまった者も一人や二人ではなかったからだ。女性はというと・・・これは言わずにおく方が無難かな・・・?僕は比較的好き勝手に生きてこれた部類だから、自分を見失うこともなく、体型も相変わらず痩せ型だったから、それほど老けては見えなかったのかもしれない。だが、実際にはその場にいた当時の「仲間」たちの誰もが若く見えた気がする。僕らは当時から、人生を楽しむことには積極的だったから。

 現在はコロナウィルスのこともあって、同窓会はしばらく開かれていないが、あの頃の「仲間」たちと個人的に連絡を取ることはしていない。今ではみんな、お互いが知らない人々に囲まれて、あの頃とは別の人生を送っているだろうからだ。だがルーツがあの時期にあるという共通認識からすれば、みんなそこそこ元気にやっているんだろうと思う。ただ残念なことに、今までの同窓会で「二人乗り」の彼女に会えたことは一度もない。

 「スタンド・バイ・ミー」では、最後のモノローグで当時の仲間が今どうしているかが語られ、その中で10年以上会っていなかった親友が、つい最近その正義感のために命を落としたことが伝えられる。その後映画は主人公の作家が執筆を終え、子供たちと出かけるために書斎を出て行くシーンで終わるのだが、その直前、今書いたばかりの最後の一文が映し出される。そこには「その後の人生で、あの12歳の頃のような友人を持つことは二度となかった」と書かれていた。執筆していたパソコンの電源を切り、作家は現実へと戻っていく。人生とはそういうものだ。

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 替え歌とザ・ドリフターズ

 「誰かさんと誰かさんが麦畑・・・」で始まる歌がある。まんま、「誰かさんと誰かさん」という歌で、ザ・ドリフターズが1970年にヒットさせたコミック・ソング。だが実はそれ以前から「故郷の空」という曲名で、別の歌詞の元歌が存在している。「夕空晴れて秋風吹き・・・」で始まる、故郷の親兄弟を思う歌だ。僕は小さい頃の記憶から、こちらの方が親しみがある。しかし、実はこの歌はさらにさかのぼって原曲がある。スコットランド民謡の「ライ麦畑で出会ったら」という曲だ。「ライ麦畑で出会ったら 二人はきっとキスをする」といった内容なので、ドリフターズの「誰かさんと誰かさん」はより原曲に近いと言える。

 原曲の詩を書いたのはスコットランドの国民的詩人、ロバート・バーンズで、以前にも触れたと思うが、「蛍の光」の原曲、「オールド・ラング・ザイン」の詩を書いた人。「オールド・ラング・ザイン」は、過ぎし日の思い出を友と一緒に懐かしむ歌で、「蛍の光」とメロディーは同じでも、内容が大分違う。

 明治時代、海外の文化が盛んに取り入れられ、日本の欧米化が進んだこの時代には、こうした外国の曲が輸入され、それに日本語の歌詞をつけた歌曲が盛んに作られた。ほぼ直訳のものから「故郷の空」や「蛍の光」のように、全く違う歌にしてしまっているものまであって、後者に至っては、替え歌同然だ。だがそれなりの人が詩をつけているので名曲も数知れない。しかもそのほとんどが文語で書かれている。文語表現の好きな僕にとっては喜ばしいことこの上ない。

 替え歌とは関係ない話だが、「誰かさんと誰かさん」をヒットさせたザ・ドリフターズ(要するにドリフ)。実は1950年代にアメリカでも「ザ・ドリフターズ」というR&B系コーラスグループが結成されており、度重なるメンバー交代を経て現在に至るまで、解散したという話は聞いていない。つまり元歌ならぬ元グループが存在するわけで、アメリカで「ザ・ドリフターズ」を話題にすると、とんでもない食い違いが生じる可能性が高い。日本の、いわゆる「ドリフ」は1956年に結成されたが、元々は純粋にバンド活動をしていて、コミックバンドに趣向替えした後の1966年に「ザ・ビートルズ」の来日公演で前座を務めたのは有名な話。また、2001年にはNHKの紅白にも出場し、松田聖子と対決している。演奏の技術は本物、ということだ。

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 アニメとヘミングウェイ

 久しぶりに「バーテンダー」というアニメのディスクを引っ張り出してきて鑑賞した。同名のマンガを2006年にテレビアニメ化したもので、さすがに作画などには時代の古さを見て取れるものの、演出の面においてはかなりこだわりを感じさせるヒューマンドラマだった。当時このアニメを一緒に見てカクテルの美しさに感動した幼い娘たちが、その年のクリスマスにカクテルを作るための道具をサンタさんにお願いしたことは、酒好きの父親にとってこの上ない幸運だった。 

 中でも好きなエピソードが、第5話「バーの忘れ物」。パワハラ上司に地方支局に左遷されようとしている小心者の若い社員に、主人公であるバーテンダー佐々倉がヘミングウェイの小説「老人と海」の話をする。初出が1952年のこの中編は、小舟で一人海に出た老漁師が3日にわたる死闘の末、巨大なカジキを仕留めるも、血の匂いを嗅ぎつけて集まってきたサメに襲われ、奮戦むなしく獲物をほとんど食いちぎられてしまうというストーリー。佐々倉はこの小説の中で老人が呟く有名な「・・・人間は負けるようには作られちゃいない。叩き潰されることはあっても、負けやしないんだ。」という言葉を引用して若い社員を励ます。彼は辞令を受けることを決意し、佐々倉との再会を約束して新しい任地へと旅立っていく。

 ヘミングウェイ(アーネスト・ヘミングウェイ 1899~1961)はやたらと男気のある人物で、1930年代に起こったスペイン内乱では義勇兵としてファシスト政権に立ち向かったこともあるぐらいだ。「老人と海」においてもヘミングウェイは困難な状況に屈せず立ち向かうという人間としての尊厳(そんなものは今や化石でしか見たことがないという気もするが)を深く考察し、描いている。以前僕は、中島みゆきの「ファイト!」という曲について触れた時に、「人は勝つためというより、負けないために戦い続けることがある」と書いたことがあったけれど、まさにそんな感じだ。

 実際、ヘミングウェイにも長いスランプに悩んだ時期があった。その末に書き上げたのが、この「老人と海」だった。彼はこの作品がきっかけで1954年にノーベル文学賞を受賞したが、後の航空機事故に起因する精神的な病のために、1961年、自ら命を絶ったという。彼を知るものにとっては、なんとも残念な終わり方だったと言うほかは無い。

 バーテンダー佐々倉はエピソードの中で、若い社員にフローズン・ダイキリというカクテルを振る舞っている。これはヘミングウェイが好んだカクテルの一つで、糖尿病を患っていた彼はレシピにアレンジを加え、砂糖を抜いてベースのラムを2倍の量にしていた。これはパパ・ダイキリもしくはパパ・ドブレ(パパのダブル)と呼ばれていて、彼が晩年を過ごしたキューバでは今もバーのメニューに載っているそうだ。ちなみに彼は当時、地元住民から親しみを込めてパパ・ヘミングウェイと呼ばれていた。

追記 TVアニメ「バーテンダー」は現在新作を制作中とのこと。2024年春に放送の予定らしい。前作と同じような雰囲気で作ってくれるとありがたいのだが。