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 シャミとその子どもたちについて

 シャミとは半ノラの猫の名前である。うちと関わるようになって10年になる。半ノラといっても、最近は高齢のためか外に出ている時間がめっきり少なくなった。  東日本大震災の直後、シャミは家の中で4匹の子どもを産んだ。家族で相談し、2匹を残して2匹を里子に出そうということになった。ところが、である。家人一人一人がそれぞれ気に入った猫がバラバラで、話が全く進まない。確かに、どの子猫もそれなりの個性があって、捨てがたいものがあった。そんなこんなでずるずると月日がたち、「かわいー!」と言ってもらうには少々無理がある様相を呈してきた。結果、なし崩し的に4匹を飼うことになってしまった。娘たちが小遣いからエサ代の一部を捻出することが条件だ。その頃には何となく呼び名も決まってきた。しかし正式な命名ではなかった。ゆくゆくは家から出て行くかもしれない猫に名前をつけるのもどうかと思ってのことだった。

 三毛のメスがタイショー(軍人の階級の方だ)。すごく甘ったれで、光の反射や飛んでいる虫を追うのが大好き。 それよりでかいツラをしているいたずら好きの白猫がゲンスイ。オス。白といっても耳と尻尾にうっすらと茶がかかり、「トースト」でも良かったかな、なんて思っている。 いつもグータラなわりにはイケメンのヘタレ。オス。耳のあたりと尻尾に黒い班がある。なぜか異国情緒のある毛並み。 そしてグレイ。オス。小さい頃は掴み所の無い灰色だったが、成長するにつれて上品なグレーの毛並みに。

  さて、飼うと決まれば無責任な飼い方はできないので、早速ワクチンを。獣医に連れて行くのも一度に二匹ずつの2往復。ここで問題が発生した。

「カルテをつくるので猫ちゃんたちのお名前を教えてください。」                           「はい?」                       「猫ちゃんのお名前を・・・。」            「・・・グレイ。」                   「はい。それから?」                   「・・・タイショウ」                  「はい?」                       「タイショウ。軍隊の」                  「・・・はい。それから?」               「ゲンスイ。これも軍隊の」                周りにいる人たちがこっちを見ているのがわかった。    「わかりました。それで、最後の子は?」       「・・・ヘタレ。」                 「・・・ヘタレちゃんですね。・・・ありがとうございました。」                          

 冷や汗ものである。とにかくこうして、書類上の名前がめでたくきまっ(てしまっ)たのだった。後に病気をした時など、薬袋に「ゲンスイちゃん」だの、「タイショウちゃん」だの、部隊が全滅しそうな名前が書かれていて、何とも微妙な気持ちになることもしばしばだった。残念ながらもう亡くなったが、晩年ケガをしていたためにうちで保護した老ノラが、子を産むたびにうちに来て子連れでエサをせがむので、「おかあさん」という名前をつけた時など、薬袋に「おかあさんちゃん」と書いてあって、「これ、誰?」みたいな感じだった。皆さん、ペットの名前は真面目に考えましょう。

 それまで知らなかったのだが、動物病院ではペットにちゃん付けで呼ぶのが習わしのようで、会計の時も、 「ゲンスイちゃーん」 とか 「おかあさんちゃーん」 などと呼ばれる事がある。ああ、他人のふりをしたい。 「おかあさん」のエサを買う時のエピソードは別に書くが、人前で「おかあさんのご飯買わなきゃ」などと言いながらペットフードを買うことは、勿論あれ以来していない。

           ・ゲンスイ
              ・タイショウ ・ヘタレ   
       ・グレ(グレイ)               
     (・・・なぜかヤンキーの記念撮影みたいになってしまった。)
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あの時と同じ空

 高校生の時、Kという友人がいて、自転車で遠路はるばるうちに遊びに来てはいろいろな話をしたものだった。 彼が帰るときには、途中まで送っていき(別に変な関係ではない、僕は自転車を走らせることが好きで,散歩?がてらに送っていったのだ)、時には近くの神社でさらに話し込んだ。この神社が気持ちのいい場所で、僕の住んでいた街を見下ろす高台に立っていた。神社にしては珍しく、大きな木が少なく空が広く開けていた。 その日も僕たちは傾き始めた日差しのなか、小さな駐車スペースに自転車を止めると、階段を上って境内の片隅にある草むらに身を投げ出した。その時見た空が今も忘れられない。真っ青な空のとても高いところにうっすらと雲があり、それがゆっくり動いていた。その時、なぜだろう、「ああ、地球は本当に回っているんだなあ」と感じた。もちろん理屈では、単に雲が風にのって動いているのだとわかっているのだが、僕の感性の部分が「地球が回っている」と感じ取ったのだ。 友人には申し訳ないが、その時何を話したかは全く覚えていない。ただ、広い空の高みをゆっくりと動いていく雲のイメージだけが、今も脳裏に焼きついてる。   

   時が過ぎ、僕が実家を離れたあと、あの神社があったあたりに国道のバイパスが通った。あの神社がどうなったか心配だったが、帰省した際に確かめてみると、ぎりぎりまで山が削り取られてはいたものの、神社そのものはしっかり残っていた。そして、山が削り取られたためにその鳥居は遠くからでも望めるようになった。  

   大人になった僕は、今でも自分の住んでいる街の空を見上げることがある。時代が変わり、人の心が変わってしまっても、空はあの時と少しも変わっていないからだ。