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 一味違う「潜水艦」映画

 「ハンター・キラー」という映画を初めて見た。「潜行せよ」なんて副題が付いていたので、B級くさいイメージだったのだが、これが大間違い。脚本もしっかりしていたし、カメラワークも一級品。俳優陣も渋くてかっこよくて、特に主役のジェラルド・バトラーが少し陰りを帯びているのが何とも・・・。この人って、ホワイトハウス二部作(と勝手に呼んでいる)のうちの、シリアスな方に出てた人だよね?

 正直、ストーリーは「こんなにうまくいくわけ無いじゃんか」みたいなところもあるんだが、描き方が上手いとそれが許せてしまうんだなあ。誰かがツイッターで「ダイ・ハード」になぞらえていたけど、確かにそんな感じもあった。ただし、こちらは笑うところは一切無し。アクションと心理戦でぐいぐい押してくる。ところで皆さん、他の潜水艦ものとして「クリムゾン・タイド」をあげていらっしゃるようだけど、「レッド・オクトーバーを追え!」はもう古いんですかね?あれもなかなか良かったですよ。特に、事が終わった後の敵国(と言っていいのかどうかわからんけど)同士の艦長たち(ショーン・コネリーとスコット・グレンもしくは同乗していたアナリストのアレック・ボールドウイン)が良い雰囲気で会話するところも似ていて、僕なんかはそっちがすぐに頭に浮かんだんだけど。ただ、最近の映画ばかり見ている若い世代には、CGの出来が物足りないかもしれない。

  話は戻って、この「ハンター・キラー」の新機軸は、陸軍(かな?)の特殊部隊による地上戦が絡んでいるところで、潜水艦という密室の中でアクションがこじんまりしそうなところを、派手な戦闘シーンでうまく補っている。そして双方にきちんと見せ場が用意されているので、飽きることなく最後まで一気に引っ張られた。その中で人間模様もちゃんと描いているし、特筆すべきは名脇役たるロシアの駆逐艦の扱いがとても上手で、久々に文句なしの映画を見た気がして、とても満足できた。

  ところで、潜水艦ものの戦争映画の古典に、「眼下の敵」というのがあるのを知っています?これは第2次世界大戦もの(1957年制作)で、アメリカの駆逐艦(長)とドイツのUボート(艦長)の心理戦を描いた秀作なんだけど、孤立無援の一騎打ちなんだよね。今でも潜水艦映画のベスト10には必ず入ってくる。この映画のなかで、老練のUボート艦長が、「今回の戦争は(第1次世界大戦と比べて機械化が進んだために)人間味のかけらもない」みたいなことを言うシーンがあって、「第2次世界大戦でもうすでにこれじゃあ,リアルタイムで中継すらできる現代の戦争はどうなってしまうんだろう」と思ったのを覚えている。だが主人公である二人の艦長は、クライマックスで見事に「人間味のある戦争」を見せてくれる。人間味があれば戦争しても良い、という意味ではない。戦争のなかでさえ人間味を失わない事の大事さを描いている、という意味だ。今の若い人が見てどう感じるかはわからないが、潜水艦映画に興味があったら、ぜひ一度見てみて欲しい。ラストシーンの会話がとても良い。

  知らない人もいると思うが、水中ではレーダーが使えないので、敵の位置を知るにはソナー(アクティブ・ソナー)を使う。ただし、これはこちらが出した音波(あの、コーンと響くやつですね)が反射して返ってくるのを聞いて相手の位置を特定するので、こちらの位置もわかってしまうから、むやみに使うことはできない。むしろ足の速い水上艦艇が優位な立場で使うことが多い。もうひとつの方法が「水中聴音機(パッシブソナー)」。潜水艦ものには、かならずヘッドホンをつけっぱなしの人が出てくるけど、あの人たちがソナーの係員ですね。要するに相手のスクリュー音とかを聞いて位置を割り出す方法。推進機関こそ今では原子力によるタービンエンジンなんてものが当たり前になっているし、海上自衛隊のようにいまだにディーゼルエンジン+バッテリー(モーター)でも、相当長い間潜行したままでられるようにかなりの進化を遂げているわけだが、この水中索敵能力だけはどうも新しい技術が開発されていなくて、洗練されてきてはいるものの、いまだに音に頼っているというのが何とも・・・。だから、よくあるでしょう、窮地に追い込まれて「期間停止!総員、音を立てるな!」というシーン。で、やらんでも良いことをやって手を滑らせ、何か落とすヤツが必ずいる。そこのお前!余計なことするな!もう一つ。ハンター・キラーでも出てくるが、近い距離で真後ろに付くと、前にいる潜水艦には気付かれない。これは、前の艦の機関音やスクリュー音に邪魔されて、後の艦の音が聞こえなくなるためらしい。追尾していて、離れたくなった時には機関停止すれば無音で離れることができる。ロシアの潜水艦は、追尾する艦がいないか確かめるために定期的に急旋回するんだそうだ。進路に角度差ができると相手の音をキャッチできるというわけだ(この操艦をクレイジー・イワンと言う)。さらに無線で連絡をとるにも、ある一定の深度まで上がらないと通信できないということで、水の中は思った以上に勝手が違うようだ。

 ちなみに、前記したように海上自衛隊の潜水艦はいまだに原子力は使用していないのだが、これはこれですごくメリットがあるらしい。第一に原子炉という熱源がないので、赤外線探知衛星に探知されにくい。第二に、原子炉の運転音がないので、機関を停止すると文字通りの無音潜行が可能になる。聞くところによると、アメリカの太平洋艦隊と模擬戦闘をした時に、海上自衛隊の潜水艦隊はその隠密性を生かして待ち伏せ攻撃をかけ、何回か全滅させたことがあるらしい。やるなあ、海上自衛隊。

レッド・オクトーバーを追え!
眼下の敵

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 ホラー映画とは?

 ホラー映画が好きだ。「そんなことあり得ない」と思いながら、「もしあったらどうしよう?」とも思う。その狭間の感覚というか、中途半端に不安定な気分にさせてくれる。現実逃避的な意味合いもそこにはあるのだろう。そういった意味ではSF映画も好きだ。ただし、最近のSF映画は特殊効果(CG等)を見せるためだけのものになってしまっているような気がする。これは×かな。

 アメリカでは最近マーヴェルレーベルのコミックスを映画化するのが流行っているが、あれは僕はダメだ。「何でもあり」すぎるからだ。その点、50年代のSFは良かった。クモが巨大化したって?そりゃ大変だ!でもなんで?それはね・・・と、多少無理矢理ではあっても、種明かしがある。これが楽しい。なかには「ウッソー!」みたいなこじつけもあるが、とりあえず説明はされている。ホラーではこうした科学的な説明はいらない。ただし、多少なりとも起こった出来事の因果関係というか、原理的なものは説明されることが多い。時には「だってそうなってんだから仕方ないだろ」とか言われて「そっかー、怖いわー」で終わってしまうようなものもあって、「なんで祟るんだよー」とか「なんでこの人が死んじゃうんだよー」とか言っても、悪魔とかその一党なんて、そもそも何考えてるかわかったモンじゃないから、中近東の悪魔がいきなりニューヨークの少女に憑依したりする。その人知を越えた不条理さが怖いのだ。

 最近のホラー映画を見ていると、いやホラー映画に限らず、「こういうことがありました。後は自分で考えてネ」みたいな丸投げ的なものがあって、あれはちょっと感心しない。80年代の、血糊の量を競うような風潮もあまり好きではなかった。その後、しばらくして現れたのが「リング」に代表されるジャパネスクホラーと呼ばれる一連の作品群であった。「リング」のなかの「何があったかわからないけど、ひどい死に顔なのでなんかものすごいものに遭遇したに違いない」的なシチュエーションはなかなかいい。見る側が勝手に一番怖いことを想像してしまう。これは説明不足ではなく、想像をかき立てるための技法だから許せる。そもそもアメリカンホラーはどちらかというと「痛い」怖さ。しかも恐怖の対象を視認できることが多い。日本には「気配」という素晴らしい言葉があって、これは最終的に恐怖の対象を視認できるとしても、そこへ行くまでにじわじわと見る者を締め付けてくる。こういう作品が好きだ。最近の洋画では、「ジェーン・ドゥの解剖」がこれに近かった。古くは「ブレアウイッチプロジェクト」あたりか。「ジェーン・ドゥの解剖」の、最後のセリフなんていかにも意味深で、ちょっと投げた感じもするが、あれは許す。

 邦画では「回路」がわりと好きだ。ストーリー的には酷評もあるようだが、あの見せ方は特筆ものだ。だが、なぜかアメリカがリメイクすると同じシーンでもあまり怖くないから面白い。これは多分、下着のカタログに外国人女性を使うとあんまり・・・いやいや、話を続けよう。

  つまり、何が怖いかというと,理解できなかったり、理不尽であったりすることなのだろう。「なんでオレが!」と思うその恐怖。これは怖いぞー。例えば悪魔が憑いたのなら「ああ、悪魔憑きね」でおさま・・・らないかもしれないけど、まあ、理屈はわかる。すでに概念があるからだ。ところが、「リング」のような話になると、「ビデオ見ちゃいました」が死ぬ理由になる。身に覚えがなくても、ぜんぜん悪いことしていなくても死ぬ。これはいやだなあ。しかも黙って死なせてやればいいのに、「何日後に死にます」なんて電話がかかってくる。嫌味なことこの上ない。そういえば原作を読んだときに「本を読むのは大丈夫なんだよな?」なんて気持ちになったことを思い出す。続編ではこれもアウトな設定だったような・・・。いずれにせよ、そういう日常ではあり得ない不条理の中に身を置くことで、現実からつかの間逃避できるのが、ホラー映画の魅力のひとつだろう。あまり健全な方法とは言えないが。

 SFホラーとか、SFアクションといったクロスオーヴァーものも最近多い。「エイリアン」シリーズや「バトルシップ」なんかがそうだ。「エイリアン」シリーズなんていまだに続いているし、あれこそクトゥルフ神話だ!なんていう人まで出てくる始末だ。H.R.ギーガーの画集「ネクロノミコン」がデザインのもとになったからって、少々考えすぎだろう。「バトルシップ」については、「そんなことあるかーい!」の連続で、あれくらいやってくれると逆に快感だ。戦艦ニュージャージがあんなに簡単に始動できる状態にあるとは思えないし、投錨して進路を急カーブさせるなんて、何十年も前に宇宙戦艦ヤマトがすでにやっている。そして多分どちらも無理だろう。しかし、無理を通さないと地球が危ない。その無鉄砲さ加減がかえって「やるなあ、ニュージャージ!」とか思わせてくれるのだ。あのレベルの侵略がもし現実に起こったら、一週間で地球は占領されてしまうに違いない。

 ところで、「イベント・ホライズン」というホラーSFをご存じだろうか。天文学が好きな人なら、イベント・ホライズンという言葉がブラックホールに関する専門用語であることはすぐわかると思う。日本語では「事象の地平線」などと訳される。ブラックホールのこちら側とあちら側を分ける境界のことを指すらしい。あちら側では何が起こっているのか観測できないのでこう呼ばれている。

 深宇宙探査船「イベント・ホライズン」が、特殊な推進力を使ってブラックホールの向こう側への旅に出る。そのまま消息を絶ち、数年ぶりに帰ってきた「イベント・ホライズン」には生存者は一人もいなかった。クルーは全て残忍な方法で殺害されており、クルーのかわりにそこにいたものは?・・・謎解きの手がかりは、航宙日誌に記録されたラテン語(!)の音声のみ。では、イベントホライズンがたどり着いた場所とはなんだったのか?                           アレだよアレ。                    じゃ、宇宙船にとりついていた存在とは?          カレだよカレ。                      そういうお話。何しろアイディアがいい。ネタばらしになるが、この世界ではない別の世界へ行く能力を持った宇宙船が行った先は地獄だった、とか、よく思いついたなと思う。各キャラクターの絡みやドラマ部はイマイチだが、この荒唐無稽さはアリだと思う。

 過去にスタンリー・キューブリックとA.C.クラークのコンビが同じようなデザインの宇宙船で神(科学的な概念としての)のもとへ行ってみせたが、それから何十年もたってから、今度は悪魔のもとへ行く映画が作られるなんて、思ってもみなかったに違いない。まあ、作品としてはこじんまりとしているが、特殊効果やセットについてはかなり凝っていたと思う。

 付け足しだが、「メッセージ」もなかなか良かった。異星の巨大宇宙船が現れたときの人々の生活の様子がリアル。授業を中断して学生を帰宅させる大学のシーンなんて、「ウンウン、こうなるだろうなー」と思わせてくれる。その後の展開も、難解さはあるものの(時系列が妙に混乱している)、最後にきて「ああ、そうだったの!」と、しっかり回収してくれる。ちなみに原作は短編集で、他の作品もひねりがあってなかなかのもの。 よくこんな話を映画にする気になったな、と思う。短編集は全体としては例の、「そんなことあるかーい!」の連発で、作者は「ここではこれが普通なんです」みたいな顔をして一歩も譲らない。とにかくこの作者は頭がいい。その思考実験に無理矢理つきあわされている感じ。好き嫌いの分かれる作風だが、僕は嫌いではない。ちょくちょく読み返す気にはならないが、読後感を一言で言うなら、「すげー。よくやるよ。」といった感じか。興味があったら読んでみるといい。だが、ダメな人は一話目の終わりまですらたどり着けないだろう。

 というわけで、ホラーやSFは僕にとっては現実逃避のためのツールである、ということを言いたかったかったのだが、なんだか脱線ばかりしてしまった。この埋め合わせはまた今度。

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 T飯店のチャーハン

 チャーハンが好きだ。あまりいじられていない普通のやつがいい。子どもの頃、近所に町中華の原体験となった店があって、それがT飯店だった。僕の住んでいたT市にも本格的な中華料理店はあったが、入ったことは一度も無かった。その店のショーケースには鶏の丸焼きが飾ってあって、その店の前を通るたびに、いつかあれを注文してみたいと子どもながらに思ったものだった。ただしこの話にはオチがあって、鶏の丸焼きに見えたのは実は北京ダックであって、肉を食べる料理ではないことを知ったのは大人になってからのことだった。北京ダックを出すぐらいだから,相当本格的な店だったのだろう。

 その当時T市にあった「T名店街」という名のアーケード街には、もう一件、名前は忘れてしまったが小さな街中華の店があって、そこで僕は肉団子とカニ玉の味を覚えた。だが、ほとんどの街中華的な料理は、出前を頼めるT飯店で初体験したのだった。  

 T飯店は僕が小学生の頃にオープンし、ご主人が亡くなった今も健在である。今では奥さん(というか、もうばあちゃんだ)が一人で切り盛りしており、多少薄味になったものの、あの頃とほぼ同じ味付けを楽しむことができる。僕は27歳の時にT市を離れたが、今でも帰省する折にはT飯店の営業日に合わせてスケジュールを決め、家族を連れて店を訪れたり、実家で出前を取ってもらったりしている。ただし、出前と言ってもおかもちを運ぶのは我々だ。ばあちゃん一人の店なので、多人数の注文の時は我我が運ぶのである。娘たちはT飯店の味がとても気に入っていて、すでに家を出て一人暮らしをしている長女など、T飯店のご飯が食べたいがために個人的に実家に遊びに行っているぐらいだ。下の娘も時折、うなされたように「T飯店のチャーハンが・・・」とつぶやく。  

 T飯店は看板も落ち(文字通りの意味である)、斜めに立てかけてあって、なじみの客以外はそこが現役の飲食店であることすら気付かないであろう、といった外見である。暖簾も色あせ、近づいてみないとそれが暖簾であることすら気付きそうにない。 中に入ると、今時こんなテーブル売ってるのかいな、という感じの古ぼけたテーブルが並んでおり、その上には雑誌や新聞が置いてあって、食事の邪魔になることこの上ない。椅子に至っては何度買い足したのか、同じデザインのものは二つと無い、と言っていい。テレビはいつもつけっぱなし、壁に貼ってあるお品書きは一度だけ値段の部分を貼り替えてあるが、いずれも油を吸って茶色く変色し、10年以上値上がり等は一切無かったであろうことがわかる。加えてラインナップも、僕が子どもの頃とほぼ変わらない。ただし、今は一人で全てをまかなっている都合上、その日の仕入れによっては「今日はできません」というものもあるようだ。少し前までは店の隅で老犬が寝ていたが、残念なことにその犬は昨年亡くなったと聞いた。そんな店構えであっても、近くにある法務局や司法書士会館の人たちが昼食を食べに来るので、客足が途絶えることが無い。安くて美味いのだから無理もない。

 僕がいつも頼んでいたのはチャーハンと餃子の定番の組み合わせかオムライス。時々麺類を頼むが頻度はそう多くはない。このチャーハンがとても美味で、今まで食べた中ではT飯店のチャーハンが一番だと思っている。だから、中華料理の店では必ずと言っていいほどチャーハンを頼んで味を比べてしまう。しかし、他の店でチャーハンに満足したことは今までただの一度も無い。勿論T飯店のチャーハンが誰が食べても世界で一番美味、と言っているわけではない。要するに、僕の好みの味なのだ。さらにこのチャーハンについてくるスープが、これまた絶品なのである。レシピはとても単純だ。刻んだネギと醤油の入った小椀に豚のバラ肉(多分)で取ったスープを注ぐだけ。これがすこぶる美味い。これが飲みたいがためにチャーハンを頼んだこともある。 勿論その他のメニューも頼んだことはある。特に肉もやし炒めや肉ネギ炒めなど、いつ食べてもおいしいし、ラーメンは勿論もやしそばも捨てがたい味付けだ。残念なのは、餃子の皮が以前より薄い物に変わってしまったことで、元々僕は、餃子については皮が厚くてもっちりしているものが好みだったので、この変化はかなりショックだった。

 僕は料理好きで、一度食べておいしかったものはその味を家庭で再現を試みるという悪い癖がある。たいていの料理は何となくそれに近いレベルまでいけるのだが、このT飯店の味だけはどうしてもうまくいかない。料理に合わせてラードを用いたり、化学調味料の力を借りたりしてみても(中華料理ではけっこう使うらしい)、なかなか近づけない。T飯店のばあちゃん曰く、「家庭用のガステーブルではどうしても火力が足りない」のだそうだ。

 さて、僕たちはいつも土曜日にこの店を訪れる。土曜日は近くの職場がお休みなので、店は貸し切り状態で、気兼ねなくT飯店を満喫できる。ばあちゃんはいつも卵スープをどんぶりに2杯サービスしてくれる。その代わり、最近はチャーハンを頼んでも、例のスープは出てこなくなった。ある時、意を決して聞いてみた。                         「いつもチャーハンについてたあのスープは、もうできないの?」                              「えー、できるけど卵スープの方がおいしいじゃん。」    確かに、卵スープは一品としてメニューに載っているぐらいだから、そちらの方が手が込んでいる分、ありがたみはある。だがしかし・・・。                       「いやあ、俺、あのスープが好きだったんだけど・・・」  「ああ、そう。いいよ、つくったげるよ、簡単だから。」   そりゃそうだ。スープで醤油を薄めるだけなんだから。 ばあちゃんももう年だ。だがチャーハン作りに欠かせないあの腕の振りは今も健在だ。あと何年、このチャーハンが食べられるだろうか。いつもそんなことを思いながらチャーハンの味を噛みしめるようにして食べている。娘たちも同じ気持ちのようだ。 また来るから、長生きしてよね、ばあちゃん。

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 町のブラックジャック

 数年前の夏、僕はブラック・ジャックに出会った。といっても、べつに黒いマントは着ていなかったし、顔の半分の色が違ってもいなかった。メスを忍ばせていたりもしなかったな。そもそも道具らしい道具は使わなかった。

  その時僕は、ケガをしたなじみの(?)野良ネコを何とかしてやろうと、動物病院に連れて行った。そしてその治療中、慣れない環境におびえたそのネコが、僕の左薬指を本気で噛んだのだ。かなりざっくりいったので血がしばらく止まらなかった。ぼくの見立てでは3~4針縫うキズだった。獣医さんでキズ絆をもらったが、止血するのに5枚ぐらいは使っただろうか。獣医師は法律上人間の治療はできないので、ネコをうちに連れ帰ったその足で、僕は緊急夜間の外科医を訪ねた。受付で「どうされましたか」と聞くので、僕は事の一部始終を説明した。そして最後に、 「何針か縫う様だと思います。」              と付け加えた。

 しばらくして名前を呼ばれ、診察室に入ると、ちょっとロン毛の白髪の老医師がいた。ケガをした顛末を聞いた後、彼は僕に尋ねた。                         「消毒はしてあるんだね?」               「いえ。ですがあれだけ出血すれば問題ないと思います。」 「ふむ。」                        彼はヨードか何かの液体で傷口をあらためて消毒し、    「ちょっと痛いかもしれんよ?」              と言って、いきなり傷口を左右からつまみ、締め上げた。              「!」                         びっくりしたが、特に痛みは感じなかった。そのまま1分足らずじっとしていた。すると医師がいきなり、         「ほら!テープ巻いて!もたもたしてんじゃない!テープ!」 これは医師から看護士への指示だ。老医師にあるまじき迫力。まるで罵倒しているようだ。               「は、はい!」                      看護士は慌てて傷口をそれ専用らしいテープで巻き、これまた締め上げた。医師が、こんどは僕にむかって、        「痛くないかな?あまりきついと血が止まっちまうからね。」                          「大丈夫なようです。」                 「よし。明日また来て。キズを確認して消毒するから。」 「は、はい。」                    えっ?終わり?つまんでテープを巻いただけなんだけど。でもまあ、縫うよりは時間はかからないな。抜糸の手間もないし。いやいや、そういう問題か?その後、看護士さんに       「結婚指輪はしばらく外しておいてください。もし化膿して腫れ上がると、外れなくなって指が壊死したり、指輪を切り取ることになったりするんで。」                  などと恐ろしいことを言われ、テーピングの上から包帯を巻いてもらって(やっと治療してもらった気分になった)会計をして帰った。

   昔教師をしていた経験上、どう見ても3針以上は縫うだろうと思っていた。(綺麗に治そうとするならもっとかな。)それがつまんで1分、テープを巻いて終わり。翌日も腫れはなく、包帯がキズ絆に変わった。格下げかーい!結局2週間ほどで、わかりにくい傷跡だけを残して治ってしまった。今ではその傷跡も、言わなきゃわからない程度である。近代医学とは何かが問われる出来事であった・・・?

傷跡がわかるように撮影。薬指の先にうっすらと溝が・・・。

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 ベスト・ムービー

 今まで見たなかでベストの映画は?と聞かれたら、迷わず「我が谷は緑なりき」と答える。古い映画で、モノクロ作品である。監督は今は亡きジョン・フォード。出演者で名前がすぐ出てくるのはウォルター・ピジョンとモーリン・オハラぐらいか。といっても、今の若い人には全くわからないだろうなあ。子役としてはのちによく見かけるようになるロディ・マクドウォール。大人になった彼が、73年の有名なホラー映画「ヘルハウス」の主人公の一人をやっていてびっくりしたことがある。

  ジョン・フォードといえば「男を描く西部劇」というイメージだが、この映画は、イギリスはウェールズの炭鉱の村が舞台。そこに住む一家族を中心にストーリーが展開する。そして「男」というよりは「父親」が主役か。母親は名脇役といったところ。言ってしまえば「そのへんの普通の人々」なのだ。 炭鉱で栄えていた頃のふるさとの記憶と、しだいに変わっていく人の心が錯綜し、それを末息子の目を通して語っている。家族の離散や母親の病気、父の死等、翻弄されながらも力強く生きていく姿が何とも美しい。ちなみに題名の「我が谷は緑なりき」とは、「今では人の心も、あのぼた山(捨てられた石炭がらの山)に黒く覆われたふるさとのようになってしまったが、あの頃はまだ、緑に覆われた美しい谷だったんだよ」という意味。

 いつも思うのだが、ジョン・フォードの映画は、モノクロなのに記憶のなかでは総天然色、ということがままあって、この映画でも森の緑や谷に咲く水仙の黄色がすごく印象的。ジョン・フォードには「荒野の決闘」という西部劇の大傑作があるが、ラストのいよいよ決闘の日の朝まだき、指定された場所に向かうワイアット・アープ(演じているのはヘンリー・フォンダ)をあおりで撮った、その背景の空の青さったら(いや、モノクロなんだけど)・・・! 忘れられないシーンのひとつですね。

  さて、話は戻って、じゃあこの映画の何がそんなに良いのか。それは・・・よくわからない。だがそれが良い。あのシーンが良かったとか、このセリフが良かったとか、それはいくらでもあげられるのだが、この映画の魅力はそういったこまごました美点を超越したところにあるような気がする。見終わった後に残る余韻とか、登場人物への共感とか、たとえると「一緒にあの村で成長したような感じ」とか。

   ある時、僕より10歳は若いアメリカ人(これがまたすごい人で、出身がハイチ、ばあちゃんはブードゥーのまじない師だったとか言っていた。彼も映画が大好きなので、よく二人で盛り上がっていた)に、思うところあってこの映画を見せてみたところ、数日してディスクが帰ってきた。そして「すごい!こんな映画があったなんて知らなかった!間違いなく僕にとってベストワンだと思う!」てなことを英語でまくし立てていた。やっぱり映画好きにはわかるのか。それまでの彼との話題はB級SFやホラー映画ばかりだったから、ちょっと嬉しかった。そういえばこれを見た日本人の知り合いも「見る前と後では世界が違って見える感じ」と、考えようによっては、ちょっと怖くなるようなことを言っていたっけ。

   僕は90年代以降の映画には物足りなさを感じている。こうした映画がなかなか現れてこないのだ。何かこう、物足りないというか、作り物くさいというか。そんな話を長女と話していて気がついた。そうか!文学だ!

 昔の映画には文学とイコールで繋げることのできる作品がたくさんあったのだ。実際、ベスト・ムービー文学の映画化なんてざらだった。もちろんそのその全てが成功したわけではないけれど。そういう観点で見ると、今の映画はいわゆる三文小説どまり、下手をするとパルプ小説やコミックスレベルのものまである。だから、スタインベックの「怒りの葡萄」なんかをジョン・フォードが映画化したりすると、ぜんぜん格の違う名作ができあがるのは当然と言えば当然だろう。勿論人間ドラマもしっかり描かれているので、例えば「我が谷は緑なりき」の主人公たちは十分人生のお手本になり得る。だが、「パイレーツ・オブ・カリビアン」のジャック・スパローは、当然人生のお手本にはならないのである。おわかり?

 日常の延長上にあって、実際に起こりうる出来事。これが大事だ。変にいじくり回して「いやー、無い無い」と思うようなことを「あったら面白い」という観点で描くと、あり得ないけど映画としては面白い作品が出来る。そう、面白いのである。これはこれで良い。僕も娯楽映画は大好きである。だが、所詮はそれだけのことだ。たまには文学的な作品が見たい。いや、見なければいけない気がする。人の心に一生残り続け、時にその人生を左右するほどの影響力を持った映画。だがちょっと待てよ。ここまで書いて気付いた。「文学的な映画」は今でも時折見受けられるが、「映画になる文学」を書く人がそもそももういないのではないか?

 今まではスタインベックやヘミングウエイやトルストイといった文豪の作品が映画化されている。じゃ、今はどうなんだろう? なんだかあやしくなってきたぞ。この続きはまた今度。

       「我が谷は緑なりき」
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  小さな楽しみ

 車での通勤である。遠回りしている。片側2車線の幹線道路があって、距離も幾分近いのだが、どうも風景がつまらない。そこで、水田のなかを通る農道や、用水路沿いの道などを選んで通勤する。すると、季節の移り変わりがとてもよくわかる。あ、山桜が咲いた、とか、稲穂が黄色く色づいたな、とか、ススキが穂を出したな、とか。あぜ道の花などにも気付く。これが楽しい。都市部では絶対に味わえないものだ。

 ちなみに家の庭は結構広いが庭園にはほど遠く、まるで雑木林だ。どこからか飛んできた種が芽を吹き、名も知らぬ花が咲くこともある。これも楽しい。虫なんか、探しに行かなくても、むこうからやってくる。散歩も趣味の一つだが、こういった楽しさを拾い集めながら歩く感じだ。車で走っていては気づけないものも、歩くスピードなら気づくことができる。娘とドングリを拾ったり、土筆(つくし)を摘んだりすることもある。さすがにドングリは食べないが、土筆は毎年天ぷらにして食べる。雑草である「アカザ」もおひたしにして食べたことがある。これがまた美味。京の有名店、摘み草料理「なかひがし」の一品をまねたものだ。こうした小さな楽しさの積み重ねが大きな幸福感に繋がっていく気がする。 だが逆の例もある。いつも見慣れていたものが消えていくのだ。例えば、最近近所の林が一部刈り払われ、カラスウリを見ることがなくなった。緑のなかに映える鮮やかな橙(だいだい)色、それが今は見られない。気がつけば近所の墓地のそばにあった大きなケヤキもいつの間にか見えなくなった。大きな木を見ると、時に宗教的な安心感を覚えることがある。おそらく僕だけではないはずだ。特に日本人は昔から大木を神様の依り代として信仰の対象にしてきた。それが今では何のためらいもなく(いや、ためらいはあったかもしれないが)切り倒される。

 あのケヤキの木があったところは整地され、今では立派な一軒家が建っている。人の土地のことだから何も言えないが、ちょっと残念な気がする。

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 「おかあさん」の一周忌 2

 「おかあさん」の体調の変化は9月1日に始まった。まずエサを食べない。あんなに好きだったマグロもほんの少し口をつけるだけ。2日目に病院に連れて行って点滴。         「これで食欲が戻らなければ血液検査しましょう」      と言われ、1日様子を見た。点滴のおかげで多少元気にはなったが、やはり食べない。結果、再び病院へ。血液検査の結果を知って驚いた。腎臓にかなりダメージがあり、尿毒症みたいな状態らしい。先生のつぶやきが聞こえてしまった。        「この状態でよく動けるな・・・。」           ちょっと覚悟しないといけないか。でも本人はいつもと変わらないように見えるのに。 それから一週間は毎日日帰り入院。動物病院の先生は、                     「多少持ち直しましたが、いつ何があってもおかしくない状態です。特に心臓発作が起こりかねない状況なので。」      と説明してくれた。

 「おかあさん」の送り迎えは僕がやった。仕事は時間休をとり、定時に退勤した。「おかあさん」の体温は次第に低下していった。寝るときには必ずバスタオルを掛けてやったが、明け方にははだけてしまっていた。

   9日は仕事が休みだったが、午前中は台風が近くを通過中で、荒天だった。午前9時には雨が止んだので、「おかあさん」を病院に連れて行った。昨日あたりから足がふらふらで、歩くのが辛そうだった。いつものように「おかあさん」を預けて帰った。

 昼過ぎに病院から連絡が入った。状態が良くないのですぐ来て欲しい、とのことだった。                「わかりました。すぐ行きます。」            10分もかからなかったと思うが、ついたときには「おかあさん」は亡くなっていた。いつもの様に横になって休んでいるようにしか見えない。僕は聞いた。              「これってもう・・・?」                 先生は黙って頷いた。                 「そっか。・・・じゃ、おかあさん、帰ろうか。」      バスタオルで体を包み、抱きかかえてやった。       「もつと思ったんですがね・・すみません。」        先生が謝った。それは別にかまわない。十分良くしてもらえたと思う。 火葬が済み、1週間過ぎても喪失感は消えなかった。悲しみは感じなかった。ただ、 「あ、もう薬はいらないんだ。」 とか、 「あ、おかあさんのエサはもういいんだ」 などと手を止める自分に気付き、空虚感を感じた。こんなにも「おかあさん」のために時間を使っていたんだ、と思い、それでいてもっと何かしてやれなかったのだろうか、とも思った。しかし、現実には起こったことが全てだ。考えたって仕方がない。

  パソコンのデータのなかから「おかあさん」の写真を拾い出してみると、若い頃の写真が見つかった。でかい。人相(?)も悪い。こんなだったっけ、と、思わず笑ってしまった。最後にうちに来た頃はずいぶん丸くなっていたんだなあと(性格や表情の話である)思った。頬をケガで失った後の写真も多い。そのうちの一枚を画像処理して頬をもとに戻してやった。ついでに左目の奇形も何とか処理してみた。前から思っていたことだが、結構な美人さんだ。でもこれはやり過ぎだと思い、もとに戻した。

   最後の半年、「おかあさん」はよく膝の上に乗ってきた。そして必ず、僕を見上げた。                 「ここ、いいんですよね?」                と言ってるように思えた。                「うん、いいんだよ。」                  その瞬間が好きだったんだが、もう二度とないんだよなあ。

   そうそう、「おかあさん」が産んだ最後の子猫たち。あの中の一匹、「コチャ」は今ではうちの飼い猫として元気に暮らしている。「コグレ」は時々庭に現れる。美人さんだった顔が、今ではいっぱしのノラ猫のそれになってきた。それから、「おかあさん」がつけた指の傷跡。多分一生消えることはないだろう。

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 「おかあさん」の一周忌 1

 2020年9月9日は「おかあさん」という猫の一周忌だった。

 「おかあさん」との関わりはとても長い。家のある地域は県庁所在地のある都市の駅からほんの2、3㎞しか離れていないにもかかわらず、大きな川の流域にあるために農家が多く、水田や里山が広がっている。そこだけ時間が止まったような地域で、今でも狸やイタチ、キジなどを見かけることがある。大雨の降った後など、車を運転するときに亀やザリガニを轢かないように注意しなければならないほどだ。住む人の気持ちもおおらかで、野良ネコにとっては天国のような地域だ。

  当時我が家も庭先にエサ場を設け、野良ネコを手なづけてペット代わりにしていた。1990年代から現在まで、なじみのネコが3・4匹はいたと思う。その中の一匹が「おかあさん」だった。                        「かわいそうなネコだな。これじゃ拾う人もいないだろう。」 それが第一印象だった。というのも、彼女の左目には奇形があり、瞬膜で眼球の大部分が覆われていて、初めて見たときは僕自身もぎょっとしたぐらいだ。さらに体の模様も地味で、さえない感じだった。哀れに思ってエサを与えた、そんな始まり方だったと思う。

  彼女はしょっちゅうエサをねだりに来るわけではなく、いつも忘れた頃にやってきては、窓越しに家の中をのぞいた。「おっ!元気してたか?」                 なんて言いながら、エサを出してやった。痩せこけて来ることはなく、それなりに自活して元気にやっているようだった。子どもが生まれると、彼女は必ず連れてきた。ここにくれば食べ物があることを子どもたちにも教えているらしかった。そして子どもたちが馴染んだのを見届けると、またしばらくどこかへ姿を消すのだった。そんなわけで、僕たちはいつしか彼女を「おかあさん」と呼ぶようになっていた。

  2017年の春に、彼女はまた子猫を2匹つれてやってきた。灰色のブチと茶色のブチで、灰色の方はなかなかの美人さんだったが、茶色の方は目の上の毛が長く、そのせいで般若のような顔をしていた。                    「もうだいぶ歳なのに、頑張るなあ、おかあさん。」     そんなことを言いながら、子猫たちにはそれぞれ「コグレ」「コチャ」と呼び名をつけた。「グレコ」と「チャコ」では普通すぎてつまらん、というのが長女の見解だ。こうして2匹はめでたくうちの庭の常連となったのだった。そして「おかあさん」はいつものように姿をくらました。

  7月も終わろうという時に、夕方庭いじりをしていると、庭の南側の門のところに小さなネコが現れた。黙って見ていると、何のためらいもなく近づいてくる。近くへ来て驚いた。   「おかあ・・・さん?」                  あの左目は紛れもなく「おかあさん」。しかし見る影もなくやせ細り、しかも左の頬は大きなかさぶたで覆われていた。   「おかあさん、どうした!」                いつものようにエサが欲しくてきたに違いない。慌ててエサと水を出してやったが、この頬の傷では食べることもままならないだろう。案の定、匂いは嗅ぐが食べようとしない。あの痩せ方だと、食べたくても食べられない状態なのだろう。水だけ飲んで、いつものように帰ろうとするのを抱き上げ、部屋に入れた。こんな状態では帰すわけにはいかない。「おかあさん」は床の上でうずくまったまま、僕がケージの準備をするのを静かに待っていた。この頃にはうちでもネコを飼っていたので、行きつけの動物病院があった。電話を入れて事情を話すと、時間外だが看てくれるという。僕はお母さんをケージごと車に乗せ、すぐに病院に向かった。

  獣医の○○先生は頬の傷について、           「ケンカかなんかでケガをしたところからばい菌が入って、組織が壊死してしまったんでしょうねえ。もとには戻らないかも・・・。」                      「いや、とりあえず元気になりさえすればいいので。」    と答え、抗生剤やらなんやらの処置をしてもらい、薬ももらって帰宅した。うちはネコを多頭飼いしているので、予備のケージがあった。タオルやらトイレやらをしつらえてお母さんを入れた。エサは固形物を食べられそうにないので、しばらくはチュールとかポタージュでいくことにした。その方が薬も飲ませやすい。次々と帰ってくる家族は新しいケージが組み立ててあることに驚き、その中に「おかあさん」がいるのを見て驚き、その頬のキズを見てまた驚いていた。                 「もうあんな思いはしたくないからさ。」          と言うと、家族の誰もが頷いた。我が家には以前、助けられたかもしれないネコを1日遅れで助けられなかった、という悔やんでも悔やみきれない経験があったのだ。

 さて、「おかあさん」は2度目の通院の頃には体重が少しもどり、多少なりとも元気になってきた。おかげでパニックになった「おかあさん」に左手のくすり指をいやというほどかまれた。久々の大流血。見ると指の腹の部分が1.5㎝ほど裂けている。動物病院の先生も慌てて、                「人間の医者に診てもらってください。」          当たり前だ。これは縫わないとダメだなあ、と思っていたが、このキズをすごい方法で治してしまう外科医に出会うことになる。(この時のことについてはまた今度。)。 なにはともあれ、こうして「おかあさん」は、我が家の8匹目の飼い猫となったのだった。

 その後の通院の時に、かなりの年齢であることを話し、去勢手術はあきらめた。家猫として飼えば問題はなかろう。増設したケージはそのまま「おかあさん」の住まいとなり、家の中がニュースでよく見かけるような様相を呈してきた。やばいぞー。病院ではこんな会話をした。               「おかあさん、そろそろ名前をつけてあげたらどうですか?カルテのこともありますし。」                「だから、名前がおかあさん。」            「!?名前だったんだすか?」              「そう。」                        こうして「おかあさん」(仮)は正式に「おかあさん」になった。病院でもらう薬の袋には、常に「おかあさんちゃん」と書かれていた。なんだそりゃ。 ペットショップでは娘とこんな会話もあった。                       「そうだ、おかあさんのご飯も買わないと。」       「そうだな。ネコ缶とチュールを買って・・・」       そこまで言って気付いた。となりにいたお客さんがびっくりしてこっちを見ている。                   「言い方を考えた方が良いかも。」            「どうして?」                     「お母さんのご飯(=ネコのエサ)。」       「あっ・・・。」                    「お母さんのエサ、はもっとまずいな。」         「そうだね。」                      いろいろ学ぶことが多い(?)。

 それからしばらくして、顔のかさぶたは綺麗に落ちたが、左の頬の大部分はなくなっていた。しかし、体重が増え、体力もかなり戻った。そんなお母さんが正月に脱走した。ほんの少し開けてあったサッシを無理矢理こじ開けたらしい。あの老猫の、どこのそんな力が残っていたのかとあきれてしまった。だいぶ元気になったし、元々ノラなのでさほど心配はしなかったが、お母さんは3日後に帰ってきた。おしりにキズができて、血がにじんでいる。                          「んなあ。」                      「んなあじゃないよ、全く。病院!」            胴衣(包帯のかわり)を着せられ、エリザベスカラー(傷を舐めないように首に巻く、漏斗上のカラー)をつけられて帰ってきた。この頃から家の中でかまわず大声で鳴くようになった。さかりの時期だ。去勢していないので、本能のおもむくままに鳴くのだろう。うるさい。他の猫も大変そうだ。なでてやったり抱き上げてやったりすると静まるが、やめるとまた始まる。まあ、我慢するしかないか。「おかあさん」は春が終わる頃にはおとなしくなった。いよいよ猫又になるかな、なんて下の娘が言っていた。

 2019年には、「おかあさん」はだいぶ家に馴染んでいた。他の若い猫には体力ではかなわないと知ってか、はたまた新入りとしての自覚がそうさせるのか、皆がけんか腰になると、いつも我慢したり身をひいたりしていた。それでいていつも一番高い場所を独占するのだった。

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 最近の心霊現象

 また馬鹿なことを・・・と思われるかもしれないが、日本では夏と言えば怪談。お盆には先祖の霊が帰ってくるから、そこかしこに霊があふれていてもおかしくはない。TVでは心霊ものの番組が放送され、毎年の定番番組もある。年甲斐もなく、これが大好き。最近ではNHKまでもが毎年のように心霊番組を組んでいる。NHK,どうしちゃったんだろう?でもさすがにNHKだけあって、質は高い。古いものでは2009と2010年の2回に渡って放送された「最恐!怪談夜話」。数名のゲストが順に現代怪談(実話?)を語る番組。ファンも多いらしく、いまだにネットで話題に上る。僕も大好きで、毎年夏になると、録画したディスクを引っ張り出してくる。2017年には「京都異界中継」と銘打って、4時間にわたる生中継番組を放送。百物語になぞらえて、京都にまつわる百話の怪異譚を紹介した。好評だったらしく、2時間の「濃縮版」を複数回再放送していた。NHKではこのほかに「ダークサイド・ミステリー」という定番(現在も放送中)もあって、これはどちらかといえば検証番組。心霊現象に限らず、UFOやUMA,さらには未解決の事件や歴史ミステリーまで扱うので、幅が広くて楽しめる。ただし、検証番組であるから、気をつけないと夢やロマンを微塵にぶちこわされることがある。その点については容赦なし。民放でも「世界の怖い夜」「本当にあった怖い話」等の他に、単発のスペシャルもある。中でもお気に入りなのが、フジテレビ系列の「世界のなんだコレ!ミステリー」。厳密には、その中の不定期コーナー「ハッピーゴーストハンティング」。リッチ・ニューマンというそこそこ有名(らしい)な心霊研究家が紹介する世界のゴースト物件(ホテルが多い)を、日本の取材チームが同行してレポートするコーナー。中身はたいしたことは無いが、必ず何か起こるのが良い。リッチさんの心霊研究家らしくない軽ーいキャラも好きだ。さて、前置きはこれぐらいにして、本題に入ろう。  

 こうしていろいろな心霊番組をほぼ全てにわたってチェックしている僕が、この十数年不思議に思っていることがある。それは心霊のスタイルについてだ。スタイルと言っても勿論体型のことではなく、「写り方」のことである。            

 ご存じのように、最近の日本のホラー映画は世界的に評価されており、アメリカでは相当数のジャパネスク・ホラー・ムービーがリメイクされているほどだ。中でも有名なのが「リング」と「呪怨」。さて、ここからが問題。それ以前の動画に写る霊は移動する時にスーッと平行移動するというか、宙に浮いているというか、そういうのが定番だった。ところが「リング」「呪怨」以降、四つん這いで移動する霊が多く写るようになった。それだけではない。欧米で撮影された動画であるにもかかわらず、長い黒髪で顔を隠した霊(貞子!?)がやたら多いのだ。金髪とかあまり見たことがない。しかも、白いワンピースも共通。これってどういうことだ?

 例えば、死後の世界も現世とほぼ同じで、テレビや映画館があるとしよう。霊たちが現世で最近流行りのプログラムを見て、「あたし、次出る時このパターンでいってみようかな」「良いんじゃない?髪も黒く染めてさ。最近のトレンドらしいし」などと会話を弾ませているとしたら・・・なんだかちっとも怖くねーぞ。いや、違う意味で怖いか。  

 もう一つ。これは欧米の動画に多いんだけど、あっちの霊ってやたらに脅してくる。急に曇りガラスにくっついて姿を現してみたり、いきなり近くに来てびっくりさせたり。しかも、脅す気満々の表情してるし。そんな彼等、彼女らはいったい何が目的で出現してくるのだろうか。さらに、これは日本の幽霊も同じだが、なぜか霊たちはおどろおどろしい顔をしている。幽霊画の掛け軸を見るとよくわかる。穏やかな、生前と変わらない表情をしているのは、江戸時代の有名な絵師、円山応挙の描いた「幽霊図」ぐらいだ。 知っている人もいるだろうが、「四谷怪談」のお岩さんが醜い顔をしているのは、夫である田宮伊右衛門に、副作用で皮膚のただれる遅効性の毒を飲まされたからだ。つまり、お岩さんは生きているうちにあの崩れた面相になったわけで、お岩さんの幽霊はある意味、生前の姿で現れてくるのである。ところがこの「四谷怪談」以降、幽霊と言えば片側の頭髪が脱毛し、まぶたが腫れて垂れ下がった「お岩モード」が当たり前になってしまった。掛け軸にも多く見られるし、新しいところでは昭和の漫画「墓場の鬼太郎(ゲゲゲの鬼太郎の発端となる話)」で、鬼太郎の母親である「幽霊女」がこのモードを取り入れている。(ついでに言うと、父親はミイラ男。死んで腐った体から、子どもを見守りたい一心で死にきれない片目が抜け落ち、現在の「目玉のおやじ」になる。)ただし、お岩モードではないにもかかわらず、恐ろしい形相の幽霊も少なくない。これは当時、疫病で亡くなった人の遺体や、飢餓や老衰で衰弱して亡くなった人の遺体を参考にしたためではないかという説が有力だ。つまり死後の姿だ。目が白く濁っていたり、歯が妙に長かったりするのは、つまりそういうことなのだろう。そう言えば「古事記」においてもそういう場面がある。

 黄泉の国へ行った(亡くなった)妻のイザナミに会いたくて、出向いたイザナギが見たものは、腐れ果てて「ウミワキウジタカ」ったイザナミの亡骸であった、というくだり。日本の昔話って、妙にリアルというかエグい表現が多い。「因幡の白ウサギ」だって、よく考えるとがまの穂ぐらいでよく治ったなっていうぐらいの大けがだし、「かちかち山」の狸がおばあさんにした事なんて、ちょっとここに書けないぐらいすさまじい。肉食じゃない日本人の記述とは思えない。いや、肉食してたでしょう、多分。

 またまた話がそれてしまった。要は、「動画に写る霊のほとんどは、必要以上に恐ろしい姿をしてますよね」ということが言いたかったのだ。特に四つん這いなんて意味不明。まさか、今更「足がないから・・・」というわけでもあるまい。実際、足あるし。

 最後は撮影者の根性について。彼等は絶対撮り逃がさない。何があっても決定的瞬間はものにするし、ここでビデオ回してんのおかしいだろ、という瞬間にもカメラを止めることなど絶対に無い。まさに「カメラを止めるな!」状態だ。すごいっ!

  ・・・今思いついたんだけど、もし霊が生前の姿で現れて、そこにいる人たちが「あっ!おばあちゃんだ!おばあちゃーん!久しぶりー!」なんて言いだして、そこで撮影者が根性出して、「カメラを止めるな!」状態だったら、下手すると2時間枠では収まらない心霊ビデオが撮れてしまったりするんだろうか。「お盆 第2日」とか言って。やっぱり放送枠とか考えると、どんな根性カメラマンでもケツまくって逃げ出すような恐怖演出が必要なのかも。画像が乱れて撮影終了、みたいな。そっかー、なるほど、そういうことだったのか。ちゃんと先方にも考えがあってのことだったのね。

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 ダーティー・ヒーロー前夜

 アメリカン・ニュー・シネマというカテゴリーがある。60年代から70年代にかけてアメリカの若者がヒッピーなんかやっていた頃の、あるいはその直後の時代に作られていた映画だ。体勢に反抗する若者の生き様を描いたものが多く,その中で僕の生き方、考え方に大きく影響した映画が何本かある。

・ バニシング・ポイント                 ・ 暴力脱獄(クールハンド・ルーク)                   (「マーフィーの戦い」というのもあるがイギリス映画なのでアメリカン・ニュー・シネマではない。)

 どの映画も主人公は若者で、正しいと信じた自分の生き方を貫き通し、その為に最後には命を落とすことになる。多分後のダーティー・ハリーに代表される「ダーティー・ヒーロー」の前段階で、「わかるんだけれども、肯定は出来ない」時代だったのだろう。(ダーティー・ハリーの頃には少し時代が進んで、「わかる!オレ支持する!」と言える時代になっていたに違いない。(こっちも面白そうだな。後で別に書こう、ダーティーヒーローについて。)

  あらすじをくどくど書くのもどうかと思うし、そういうコーナーでもないので、興味があったら見てみて欲しい。ちなみに一番好きなのは「バニシング・ポイント」。カルト・ムービーとして知られており、今でもディスクが販売されているようだ。僕も2枚持っている。多分レーザーディスクも。今の若い人知らないでしょう、LD。(DVDの化石のことです。巨大化しすぎて絶滅しました。)

  僕は今でも、多分年に数回は再生する。今思い出しても・・ああ、コワルスキーの最後に見せるあの笑顔、支持しつつも止めようとするDJスーパー・ソウルの盲目ながら鋭い眼差し!おっと、話を進めよう。                    

 20代の頃、父と映画談義をしていたときにこの3本の映画のことを話した。その時父に「おまえは危険すぎる」と言われたことをよく覚えている。危険思想、という意味ではなく「死に急ぎそうで危ない」という意味だったと思う。その後すぐ、「清濁併せ呑む」という言葉を教えてくれたぐらいだから。当時の僕は思い立ったら何でもすぐ実行に移したり、納得のいかないことにはとことん反発したりと、結構やらかしていたので、心配してくれていたのだろうなあ。まあ死んでしまっては元も子もない、ぐらいの考えは僕だって普通に持ってはいたんだが。ただ、そういった生き方へのあこがれは確かにあった。自分にはそこまで出来ないことがわかっているからこそのことだ。          

 「バニシング・ポイント」では、自分の生き様をとことん貫き通した主人公は、微笑みながらバリケードに突っ込んでいく。ラストに流れるキム・カーンの歌がまた良い。「誰も彼を愛さない誰も彼を見ていない」(Seeが使われているので「理解していない」ともとれる)そう、そんなふうだったんだよあの頃は。  

 今でも面白くないことがあったときや、日常に飽き飽きしたときなどに引っ張り出してきて見る。すると何となく元気が出てきて、もういっちょ、やらかすか、てな気分になれる。なんか育ってないな、なんて思いながら、実はそれが嬉しかったりもするのだ。

バニシング・ポイント