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 秋のSF祭り 「2001年宇宙の旅」

 前回「宇宙征服」という1950年代のSF映画について書いたが、そういえばプラモデル専門誌「モデルグラフィックス」の10月号が「2001年宇宙の旅」の特集を組んでいたっけな。なぜ今「2001年宇宙の旅」なのかというと、なかなか見つからなかった資料がいろいろと出てきて、正確なディテールのモデルが出そろってきたのが最近の話であること、「宇宙ステーション5」がアメリカのメビウスモデル社から発売されたことなどがその理由らしい。ちなみにメビウスモデル社はSFのプロップを積極的にモデル化しているメーカーで、これらのキットはアマゾンで容易に手に入る。だがしかし、「2001年…」のディスカバリー号や往年のTVドラマの「原潜シービュー号」などは1メートルもあるビッグサイズ(※)。いったいどこに置けというんだ。

 さて、モデルグラフィックスにはモデルの解説だけでなく、最近わかってきた映画制作上の裏話なども掲載されていて、読んでいるうちにまた「2001年…」が見たくなってきた。先の「宇宙征服」と見比べるのは酷かもしれないが、それも一興と思い、久しぶりにBDを引っ張り出した。

 この映画を見るたびにどうしてもやってしまうのが時代考証。そんなの無粋でしょ、と言われるのは分かっているんだけど、例えば「2001年…」の世界ではだれも携帯電話を持っていないことなどは到底見逃すわけにはいかない。おかげでフロイト博士は宇宙ステーションから公衆電話(TV電話)を使って自宅に電話をする羽目に。監督のキューブリックはTV電話を見せたかったんだろうけど、画面が大きいから個人情報だだ洩れだ。今となっては違和感しかない。携帯端末としてのパッドのようなもの(ただしTV放送のみ対応?全編を通して、ネット環境が整っているようには見えない)は出てくるのに、惜しいなあ。

 ところで今回見直してみて、また新たな問題を見つけてしまった。科学者チームが月面で発見された第2のモノリスを視察するシーンで、月面移動用のムーンバスに物資が入っていると思われる木箱(!?)がたくさん積んであったりする。いくら何でもこの時代に木箱は無いだろう。下手をすると、角で宇宙服が切り裂かれそうだ。さらにその直後、随伴するカメラマンがフィルムを巻き上げているとしか思えない派手なアクションしている。デジタルカメラの出現を予測できなかったのか…いや、ちょっと待て。デジタルカメラの普及って、いつ頃だったかな。でもフィルムカメラだってAF(オートフォーカス)や自動巻き上げ機能はもうあったよね。実際、月面基地での会議の場面ではそれっぽいカメラを使ってる広報担当者がいて、巻き上げやピント調整なしで写真を撮りまくっている。

 ちなみにフィルムカメラの自動化(AF、自動巻き上げ等)は、ミノルタの名機α7000を例にとると1985年あたり。デジタルカメラは2000年ぐらいから普及し始め、それなりの性能の一眼レフが出そろうのは2003~2005年ぐらいからだ。月面でのモノリスの発見は1999年らしいから、あのシーンで使われるとしたら、AFで、なおかつ自動化されたフィルムカメラである可能性が高い。ということは、やはり劇中でのフィルム巻き上げはあり得ない(ただし、ハッセルブラッドを使っているとしたらその限りではない)。

 もう一つ、これは時代考証というより科学的考証の重大なミスで、実は前から気づいていたんだけど、映画の後半で、ハル9000コンピューターによって宇宙空間に放り出されたプールの遺体を回収したボーマンが、ハルにディスカバリー号への帰還を拒まれて、やむなく非常用エアロックを使うシーンがあるじゃないですか。あの時ボーマンはポッドに装備されている左のマニピュレーターでロックを解除し、その後右のマニピュレーターでハンドルをぐるぐる回してドアを開けるんだけど、その時点でディスカバリーとポッドをつないでいるのは右のマニピュレーターだけ。つまりポッド本体を固定せずにその手首の部分を回転させるわけだから、反作用でポッドには多少なりとも回転運動が生じるはずだ。でもポッドは微動だにしない。それどころか、その直後に爆破用ボルトを使うことで爆発の反動と相当量の空気の噴出があったにもかかわらず、ポッドは相対位置を維持してたよね。これは宇宙空間では絶対にあり得ない。誰も話題にしないところなので一応書いておく(ホント、嫌な性格ですね)。

 今は2024年。2001年はすでに過去だが、映画で描かれたような宇宙ステーションも月面基地も有人木星探査も、いまだに実現していない。一説によると、当時のような宇宙に対するあこがれを、人類はとうに失ってしまったらしい。その間にたくさんの戦争や紛争があり、ネットには…「すごい!他人を中傷する記事がいっぱいだ!」スタンリーとアーサーが夢見た人類の輝かしい進化は、まだまだ先の話のようだ。

※ ステーション5とほぼ同時期に、ディスカバリー号の1/350モデル(こちらは40㎝ほど)が発売されたそうだ。シービュー号は以前からオーロラ版(約30㎝)等が販売されている。

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 映画の中の食事

 映画を見ていると、よく食事のシーンが出てくる。文学でも同じで、以前、スタインベックの「朝めし」という短編に出てくる、焼きたてのパンとベーコン、それに珈琲だけの食事を家で再現した話を書いたと思う。実はこれ、映画でもやったことがある。

 1968年公開の「2001年宇宙の旅」に登場する木星探査船「ディスカバリー」号のクルーが食べていた宇宙食(開発と提供はNASAだそうだ)。4つの四角いパレットにパテ状の料理が詰まっている。色はオレンジ、グリーン、ブラウン、白だったかな。同席していたもう一人は違う組み合わせだったような・・・。パレットごとに数種類のメニューから選ぶと、温められた状態で調理マシーンから出てくる。これが妙に美味そうで、大学時代にSF好きの仲間と再現に挑んだ。といっても、手に入る食材には限りがあるし、何も資料がないので完璧に「なんちゃって」料理。マッシュポテトをベースにニンジンやほうれん草を練り込んでそれらしいものを作った。ブラウンのものは挽肉でハンバーグ状のものを平らに焼いて容器に詰めてみた。白いのはまんまマッシュポテト。味は・・・まあ、材料から容易に想像がつくので面白くも何ともない。だが見た目にそれらしいものが出来上がったというだけで大いに満足した。

 次に西部劇でカウボーイたちが野外でよく食べている、いわゆる「ポークビーンズ」。といっても、アメリカの家庭料理として紹介されているようなもの(豆と肉以外にもいろいろ入っていて、トマト味で煮込む)ではなく、豆に干し肉とかベーコンを加えて煮込んだだけのもの。味付けはどうなっていたんだろうねえ。想像もつかないし、塩コショウだけで美味しいものができるとも思えないので、これについては再現は断念。映画でもコック長が「これはホントに人間の食い物なのか?」などと文句を言われているシーンをよく見かける。映像で見ると美味そうなんだけどなあ。一説によると、南の方では後述するチリコンカーンなんかも食べていたみたい。あ、あとですね。1968年公開の「ウィル・ペニー」という西部劇では、カウボーイたちが当時の主食であったであろうホットビスケットらしきものをポークビーンズと一緒に食べているシーンがあった。僕はこの映画でしか見たことがない。ちょっと感動した。でもKFCみたいにメイプルシロップをかけたりはしてなかったな。もっと北の方(カナダ寄り)ではかけていたかも。

 さて、チリコンカーンなんだけど、これはTVシリーズの「刑事コロンボ」でコロンボ警部(日本語版では警部と呼ばれている)がよく街角のスタンドで食べてたっけね。これもやけに美味しそうに食べているんだが、自分で作るまでもなく、教師時代に給食で散々食べた。でも何だか釈然としない味。本物はもっとスパイスがきいているんだろう。トマトで煮込んだ野菜たっぷりの方のポークビーンズもよく給食に出たな。

 お次はホラー映画。ゾンビが喰ってる人肉を・・・じゃなかった、もっと高尚な「シャイニング(1980)」のなかで、取り憑かれておかしくなる前のジャック・トランスが、朝食にウェンディ(奥さん)が焼いたベーコンを目玉焼きの黄身に浸しながら食べるシーンがある。フォークを使わずに指でつまんで食べるのだが、これがとても美味しそうだった。

 ゾンビと言えば一昔前、駄菓子屋で「ゾンビ肉」なる商品を売っていた。着色料で青く色づけしたビーフジャーキー(・・・だよね・・・?)なのだが、色のイメージからか、何だか不気味に感じた。しかし、人間がゾンビの肉を食うって、よく考えてみると逆だよな。最近見ないけどまだあるのかね?・・・そう思って調べてみたら、とんでもない記事がヒット。中国あたりで、冷凍庫に売れ残っていた賞味期限がもう歴史、といった肉(もともとが密輸品。最長で40年ぐらい前のもの)を何も言わずに販売して食中毒が発生、という事件があって、それもゾンビ肉と呼ばれているらしい。こっちの方がよっぽどホラーかも知れない。

 「青い食べ物」については、「羊たちの沈黙(1991)」で主人公がFBIアカデミーを卒業したときのパーティーにとんでもない色のケーキが供されていた。FBIの紋章をデザインしたケーキで、ベース色は濃紺。何をどうすればあの色が出せるのか、料理好きの僕にしても見当がつかない。一目見ただけで「食べたくねぇな」と思った。いつぞやTVで見かけた「青いカレー」も同様で、どうも青という色は、食欲を減退させる効果があるようだ。

 最後はかの有名な喜劇王チャップリンの「黄金狂時代(1925)」のお話。金の鉱脈を探して雪山に入り、遭難して何日も山小屋に閉じ込められたときに、食料がなくて仕方なく革靴を柔らかくなるまで茹でて食べるシーンがある。皿に盛りつけ、ナイフとフォークで優雅に食べる。靴紐はパスタのようにフォークに巻き付けて・・・。一応言っておくと、これについては今のところ家庭で再現する予定はないです。

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 「惑星ソラリス」

 これはあるSF映画のタイトル。1972年、旧ソビエトの映画。監督は「映像の詩人」アンドレイ・タルコフスキー。同年のカンヌ映画祭では審査員特別賞を受賞。数年前にあの名作、「2001年宇宙の旅」が公開されていて、SFマニアの間ではよく比較される。

 さて、「惑星ソラリス」である。僕は好きだが、一般論としてはあまりおすすめしない。アンドレイ・タルコフスキーは長回しを多用する監督で、アメリカ映画に慣れている人にはかったるいと思う。しかも上映時間2時間45分。早送り必至だな。その前にみんな寝ちゃうか(うちの家族はみんな寝た)。タルコフスキー自身も後に「意図的に退屈な表現をした」と言っているそうだが、だとしたらそのねらいは大当たりだ。でもこの記事を書くにあたってもう一度見直してみたら、そんなに長いとも思わずに、一気に見終わってしまった。やっぱり好きなんでしょうね。

 その昔、レーザーディスクでオリジナル版を初めて見たときにびっくりしたのが、未来都市の場面を東京でロケしていること。首都高の高架道路やトンネルが、当時のソビエト人には未来都市のように写ったらしい(本当は1970年の万博会場でロケする予定が、間に合わなかったという話もある)。話には聞いていたけど、実際に見慣れたタクシーとか貨物トラックとかが「キーン(効果音)」なんていって走っているのを見ると、「やれやれ」という感じ。しかもこのシーン、延々と続く。さあ、皆さん、早送りの時間です!

 原作者であるポーランドのSF作家、スタニスワフ・レムのねらいは「宇宙において人類が遭遇する事象は全て人間にとって理解可能だ、なんて甘いこと考えてんじゃねーぞ!」ということだったらしい。「ソラリス」という惑星には惑星全体を覆う海があって、この海そのものが知性を持った生物らしく、重力場をコントロールして惑星の軌道を変えたりもできる。人類はソラリスの軌道上にステーションを設置、数世紀(!)にわたって理解と意思疎通を試みてきたが、いまだにこれといった成果は得られていない、というのが物語の背景。ハムスターって何考えているかよくわからない、どころの騒ぎではない。85人乗りのステーションは荒れに荒れ、今では駐在するスタッフは3人だけ。あるとき、これ以上の調査を続行するか否かを決定するため、新たに1人のスタッフ(クリス)が派遣される。この人が心理学者であることが興味深い。着いてみると2人の科学者が精神を病みながらも生存。友人であった科学者は到着直前に自殺していて、意味深なビデオメッセージが残されていた。滞在するうちにおかしな事(いないはずの人影が見えたり)が続発し始め、ついには自殺したはずの妻、ハリーが現れる。この存在はソラリスの海が作り出したコピーでありながら、ソラリスの海からは独立した自我を持っていて、厄介なことに自分はハリーであると信じている。その他の人影は、同じように他のスタッフを訪れた訪問者の姿であった。クリスは混乱し、妻のコピーをポッドに載せて射出してしまうが、すぐに次のハリーが現れる。やがてクリスはこの複製された妻を愛するようになっていく。ここからが辛い。

 ハリーは過去のことを覚えていないので、自分が本物のハリーではないことに気付きはじめ、葛藤する。他の科学者達はクリスのふるまいを批判し、「君が愛したのはどのハリーなんだ?最初のコピーか、それとも2番目のか?」と問い詰め、クリスとともに行動するようになったハリーに対しても「君は人間じゃない、ただの複製なんだ」と冷酷に事実を突きつける。それを聞いたハリーはショックを受け、涙ながらに「クリスは私を愛してくれます。でもあなたたちは残酷です。確かに私はただの複製かもしれない、ならば私は人間になります。」と訴える。この決意。ここでいう人間っていったい何なんだろう。この後ハリーは思いあまって自殺を試みるが、肉体の組成が違うために死ぬこともできない(蘇生してしまう)。この間、ソラリスの海はいつものようにただうねっているだけ。その意図はまったく理解不能だ。ただただ、登場人物(ハリーを含む)にとって心理的に辛い状況だけが続く。使われている音楽がバッハの「イエスよ、私は主の名を呼ぶ」であることも効果的。SF映画なのに、見ている側が「神様、どうかこの人たち(もちろんハリーを含む)を救ってあげてください」と祈りたくなってしまう。しかも人間の定義そのものすら揺らいでくる。人間とは生物としての物理的存在を言うのか、それとも「人間である」という意識としてのそれなのか。  

 しかし、あの時代にしてこの問題提起というのは凄いと思う。今だったら、例えば近い将来人格を持った(あるいは人格を持ったように見える)AIが開発されるかもしれない。それを人類はどう扱うのか?AIの人格を認めるのか?本当に人格を持っているのかどうかを確認する方法はあるのか?実際、「2001年宇宙の旅」では「ハル(HAL、コンピューターの呼称)に人格があるかどうかは、誰にもわからないだろう」というセリフがある。そのハル自身は矛盾した指示のために神経症のような状態に陥り、強制切断の際には「怖いんだ、やめてくれ」と懇願する。この問題はもうSFとは言えない。すぐそこに迫った現実だろう(※1)。

 最終的には、ある方法(※2)によって訪問者達は消滅するのだが、それは悩み苦しむクリスを見かねたハリーの望みでもあった。また、このことによって海にも変化が起こり、陸地(島)が出現する。そして有名な、様々に解釈されているあのシーンで物語は終わる。あらすじを長々と書いてしまったが、この記事を書こうと思った理由が実はもう一つある。それは登場人物の一人が言った言葉。                      「人間の心の問題が解決されなければ、科学など何の意味もない。」         (ウィキペディアより引用)  最近のBDの字幕では「こんな状況にあっては科学もクソもありゃしない」という表現なっているけど、とにかく1972年の映画が、現在のネット社会が内包する問題を予言しているというか、科学技術の進歩の裏にある「使う人間の側の問題(※3)」が強く意識されているというか、さりげないセリフなのだが、よく考えるととてつもなく重い気がする。この人物は続けて、がむしゃらに宇宙に出て行ったって仕方ない、地球だけで十分だ、人間に必要なのは人間なんだ、と語っている。「2001年宇宙の旅」では科学技術の発展に伴う人類の新たな進化が「ツァラトゥストラはかく語りき」にのせて高らかに謳い上げられていたが、「惑星ソラリス」ではむしろ進歩する科学技術を背景に、人間とは何か、どうあるべきなのかという命題を「イエスよ、私は主の名を呼ぶ」にのせて投げかけているように思える。そしてそこには、ある種の宗教観さえ感じ取れるのだ。科学技術は人間を救えない、この科学万能と言われる時代にあってなお、人間の救済は人間もしくは宗教(=神)のなにしか存在しないという、これこそが深い精神性と人類の救済を目指したタルコフスキー監督の描きたかったことなのだという気がする。

※1 僕たちはすでに「鉄腕アトム」や2001年宇宙の旅の「HAL9000」、「チャッピー」などのAIの人格を無意識のうちに認め、感情移入までしてしまうという体験をしていると思う。

※2 ソラリスの海は睡眠中の人間の「潜在意識」から情報を得ているので、当事者の予想しない「訪問者」を送り込んでくると考えられていた。そこで覚醒中の、つまり能動的に思考しているときの脳波を変調し、X線にのせて照射することで、こちらの考えを正しく伝えようとする試みが実行された。

※3 人類は科学技術の進歩に見合った「精神の成熟度」に達しているか、という問題。有名なところでは冷戦時代の「核の危機」。 身近なところでは、ネット一つとっても人はそれをうまく使いこなせていない気がする。

〈参照〉BD「惑星ソラリス」(アイ・ヴィー・シー)