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 幕の内弁当とか

 前回駅弁について書いたが、ある意味今日はその姉妹編。

 幕の内弁当。芝居の幕間(まくあい)、つまり幕の閉まっているあいだに客が食べる弁当であるとか、役者が幕間に食べたとか、由来については諸説あるが、一般的に俵型の白飯に副菜を数種類添えた典型的な弁当を指す。駅弁はその土地の特色を色濃く出した変わり弁当が多いが、もちろん幕の内弁当も無いわけではない。東京駅などでは、一つ一つのおかずに手間暇をかけた素晴らしい幕の内タイプの弁当が販売されている。以前聞いた話だが、日本に来たばかりの外国人に日本の料理を紹介するなら、こうした東京駅の駅弁がうってつけだそうだ。それほどおかずの種類が豊富で、しっかり調理されているということだろう。

 弁当と言えば、忘れられないのが京都・伏見の「魚三楼」の弁当。確か母の日のために特別に販売されていたものだったと思う。たまたま手にした弁当だったが、二段構えの折りには、ひょうたん型にかたどられた豆ごはんと、多種多様なおかずが彩りよく詰められていた。普通この手の弁当は、必ず「これはちょっと・・・」と思うようなおかずがあるものだが、この「魚三楼」の弁当は完璧だった。一つ一つのおかずのどれをとってもそつが無い。何がどうこう、ということでなく、全ての料理が出しゃばらずに引き立て合い、ただただ「美味しい」。TVの食レポでは許されないだろうが、これが正直なところだ。他に言いようがない。ゆっくり味わいながら、ご飯粒一つ残さずに平らげた。世の中にはこんな弁当があるんだ、と感服した次第だ。もう20年近く前のことだが、以来機会があるたびに購入を試みたものの、常に売り切れ(京都駅ビル伊勢丹の食品売り場)で、いまだに再会を果たしていない。

 逆の例もある。以前教員をしていた頃に、ある旅行代理店の営業マンに、修学旅行用の弁当を企画したからといって試食を頼まれたことがある。彼は東京から、東海道を通って京都に行くあいだに通過する、各地の名物を詰め込んだ弁当を試作してきたのだ。ところが、アイディアは良いのに、肝心の料理は驚いたことにどれを食べても不味い。こんな事ってあるのだろうか。理由として思い当たったのが、前回触れた「冷めても美味しい調理法」だった。弁当の場合、とりあえずウナギです、とか、とりあえず味噌カツです、とかではダメなのだ。店で食べたら美味しいものでも、それを弁当として食べたらどうなのか。冷めても美味しく食べるにはどうしたらいいのか。そこが肝心だ。長年変わらずに販売されている駅弁には、必ずと言っていいほど開発時の苦労話がある。それを知らない素人が思いつきで手を出すから、こういったけしからんものができあがるのだ。「これ、調理人が弁当として冷めても美味しい、ということを考えないで作ってるんじゃないか?」と突っ込んだら、「なるほど、そうかもしれません」だって。甘いなあ。だいたい、一朝一夕で上手くいくような世界ではないのだよ、弁当とか駅弁とかいうものは。

 この弁当はその後、上司がOKを出したからといって、何も改善されないまま客に提供された。今どうなっているかは知らないし、興味も無い。

 さて、駅弁。僕は現在、前回紹介した「駅弁パノラマ旅行」を含め、何冊かの駅弁に関する本を持っているが、見比べてみると時代ごとに少しずつ変遷していくパッケージのデザインや、価格の変遷がわかって面白い。そして長い間には数多くの新しい駅弁が現れては消えていく。さらに列車のスピードがアップするに従って、寝台列車を含む長距離列車(実際には「長時間列車」?)が姿を消し、駅弁を販売する駅もかなり減ってきていると聞く。だが、そんな駅弁界にあっても常に「幕の内」系は残っている。時にその普遍性は大きな強みとなるだろうし、アレンジのしやすさもあってのことだろう。おかずが1~2品変わったって、「幕の内」は「幕の内」だもんね。こうして生き残った駅弁たちは、今も日本鉄道史の片隅でさん然と光り輝いているのである・・・なんちって。

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 駅弁あれこれ 

 この正月に帰省(といっても一般道で1時間あまり)した時に、あるショッピングモールで駅弁大会をやっていた。僕は駅弁が好きで、こうした催しがあると必ず数種類買い込む。今回は富山の「ますのすし」と鳥取の「かに寿し」、それと名前は忘れたが牛飯などを購入。実を言うと「かに寿し」は今回初めて購入した。「あんな有名なものを初めて?」と、ディープなマニアには驚かれそうだが、売り切れていたり、ラインナップになかったりで、なかなか巡り会えなかったのだ。でも、森の「イカめし」とか横川の「峠の釜めし」とかは散々食している。「峠の釜めし」など、たまった容器をわざわざ横川の店舗まで返しに行ったこともある。

 実を言うと最近の駅弁には少々疑問がある。例えば、ひもを引っ張るとあっという間に加熱されるものなど、何を考えているんだ、と言いたい。もちろん反論されるのは覚悟の上だが、昔の駅弁は、冷めても美味しい食材や調理法など、色々と工夫がなされていた。そういった努力をたった1本のヒモで台無しにするというのは、言語道断ではないか!(落ち着け落ち着け!)さらにもう一つ言うならば、最近駅弁というカテゴリーにしては豪華すぎるものが増えてきた。牛飯なんて、コマ肉とそぼろで十分。そこへ大きな牛肉の薄切りが並んでいたりすると、なんか違うぞ、という気がする。で、多くの場合味わいもたかが知れている。わかってる、わかってるって。そういうのを求める人が多いことも十分承知している。だがこれを言っているのは僕だけではない。駅弁はあくまでも駅弁だ。行楽弁当でも、折り詰めでもない。贅沢である必要は無いし、温めて食べるべきものは弁当にしなくていい。要するに、下手に駅弁の範疇を超えようとすると、無理が祟るということだ。

 とうの昔に鬼籍に入った僕の爺ちゃんは、本の虫であり、収集家でもあった。そんな爺ちゃんの書庫で、子どもの頃見つけた一冊の本。それは「駅弁パノラマ旅行」という本だった。発行は昭和39年、見るからに人工着色的なカラーページを含む、当時としては凝った作りの書物だ。ソフトカバー228ページ、前半は有名な駅弁についての記事を写真入りで掲載し、後半は詩人から評論家、作家からグラフィックデザイナーまで、各界のトップクラスによる評論が。さらに簡単な観光ガイド、宿泊ガイド、当時としては珍しいカロリー表まで記載されている。「ますのすし」「イカめし」「峠の釜めし」「かに寿し」等はすでに有名な駅弁として掲載されていて、「いかめし」は三つ(今は二つ)入って70円。「ますのすし」は130円。「峠の釜めし」は150円と紹介されている。件(くだん)の「かに寿し」はパッケージが大小あって、それぞれ150円と100円。今売られているのは100円のサイズの方だ。嗚呼、何おか言わんや。100円って、10円玉10枚ですぜ。想像してみてくださいよ、「かに寿し」と引き替えに、売り子さんに10円玉10枚を渡す自分を。

 この本のコラムに、駅弁の作法として「経木(ごく薄い木の板)の蓋にくっついた飯粒をはがして食べるところから始める」と書かれていて、思わずウンウン、わかるよ、と頷いてしまった。原体験というか、僕も覚えがある。昔の駅弁は経木の箱が当たり前だった。経木がごはんの余分な水分を吸ってじっとりと湿り気を帯び、反対にごはんには木の香が移って、それも味わいの一部になっていた。つまりそんな次元のものが僕にとっての駅弁なのであった。

 あの時代からほとんど変化することなく販売され続けている、素朴なスタイルの駅弁も無いわけではないが、そういう観点からすると、最近の駅弁はどうもよろしくない。そんななかで「これは」と思ったのが、仙台の「鮭はらこめし」。最近と言っても販売開始からかなり経つが、これは美味いよお。

「かに寿し」を紹介している山陰・山陽のページ。右のペーには古書特有の「焼け」が・・・。