戦争とは
毎年夏になると、たくさんの戦争に関する番組が放送される。僕は軍事マニアでもあるので、そのほとんどを視聴するのだが、いつも心を動かされる共通の話題というかシーンがある。現在生存している当時の日本兵や、亡くなった日本兵の妻が、涙ながらに「戦争は2度としてはいけない」と訴える姿だ。その主張はもちろんのことだが、僕が驚くのは、年老いた男性が70年以上も前に亡くなった戦友や兄弟を思い、男泣きに泣き崩れる姿。彼らが心に負った傷は、70年以上経った今も癒えることはなく、夏が来るたびに、不用意にかさぶたを剥がしたかのように再び血を流す。なかには今でも生き残ったことを恥じている人もいる。亡くなった戦友たちに申し訳ない、というのだ。こうした感情は戦勝国であるはずのアメリカでも同じ事で、「原爆投下は正当だった」と豪語する世論の影で、「戦争は2度とあってはならない」と涙を流す人も少なくない。彼らにとっては、勝敗など何の意味も無いのだ。
ここ数年、日本が核兵器禁止条約を批准していないことが話題になり続けている。日本の総理大臣はアメリカの「核の傘」、つまりアメリカの核戦力に守られている立場を理由に批准を拒否してきた。それに対し、唯一核攻撃を受けた国家として、真っ先に批准すべきであろう、と言う人々もいる。あの夏広島と長崎で起こった出来事を、日本は無差別大量殺戮だと言い、アメリカはそれによって終戦が早まり、結果的に多くの人命を救ったと言う。どちらも「事実」だ。だがどちらの言い分が「正しい」かを断言できる人はおそらくいないだろう。こういった問題は知識が増えれば増えるほど、判断が難しくなる。そもそも戦争では、何が正しいかを判断すること自体が難しい。太平洋戦争では、日本には日本の、アメリカにはアメリカの理屈や言い分がある。それらはどうあがいても折り合いのつくものではない。ただ一つ共通して言えることは、多かれ少なかれ、国家がその正当性を主張するために国民をも欺くということだ。このことが混乱をさらに拡大させ、それによって割を食うのも一般国民。だからこそ、勝っても負けても、末端の兵士たちには共通の意識が生まれるのだろう。言論でごまかそうとしても、個人には理解すらできない大義名分のために、命が理不尽に奪われていく事に変わりは無い。
「命より大事なものはない」という。だがひとたび戦争になれば、大衆の意思にかかわらず事は進み、多くの国民が軍人・民間人の別もなく命を落とし、国家は戦争継続のためには国民さえ欺く。矛盾だらけではないか。ならば、国家は何のために戦争をするのか。命をないがしろにし、国民を欺いてまで守らなければならない大義名分とは一体何なのだろう。
実は毎年、夏になると戦争に関する文章を書く。ところが、不思議なことに何度書いてもまとまらない。いつの間にか文脈が本意から逸脱してしまう。あるいは書けども書けども書くべき事が尽きず、それらが次第に矛盾してくる。どうしても結論にたどり着けない。そんなわけで毎年、ブログにUPすることを見送ってきた。だが今年、あることに気付いた。こうした文脈の混乱や矛盾、それこそが戦争の実態ではないのか。
よく「記憶の風化」という言い方がされるが、今や太平洋戦争を知っているものはほとんどいない。興味深い話がある。第一次世界大戦の時に各国の若い兵士たちの士気が異常に高かったのは、それ以前の戦争について、具体的な記録が残っていなかったからだという説だ。当時の若者は、戦争のなんたるかを知る術がなく、政府のプロバガンダを鵜呑みにしたという。逆に言えば、第一次世界大戦は初めて映像で記録された戦争だった。だがその悲惨な映像記録をもってしても、次の戦争は防げなかった。二つの世界大戦の間は21年しかなく、当時の政府による隠蔽もあって、学びが足りなかったということも考えられる。
日本は幸いにも、大戦後戦争を経験することはなかった。だがそれは同時に、80年近い空白があることを意味する。若い世代には「太平洋戦争」という文言を知らない者も多い。戦争体験者のほとんどが他界してしまった今、その実態を次の世代にどのように伝えていくかが大きな課題となるだろう。