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 「異常」も慣れれば「普通」になる?

 もう何回も触れてきたことだけど、このところ昭和生まれの僕には異常としか思えない事件が増えている。まず第一に殺人が多い。しかも動機は「そんなことで・・・?」と首をかしげたくなるようなものだ。虐待で子供を死なせるのも、昭和の常識からすれば異常としか思えない。以前に比べて万引きも増えたような気がする。しかも盗んだ側がそれをとがめられて逆ギレし、暴行に及ぶような事件もある。これも僕から見たら明らかに異常。

 別れた相手とよりを戻すために暴力に訴える事件も増えた。これについては、命に関わる例も多い。それを愛情と思っているのかどうかは知らないが、もしそうだとしても歪んでいる。強制された愛情なんて存在するわけがない。それがわからないのは、やはり異常だろう。

 気のせいかもしれないが、原因がなんだかよくわからない交通事故も増えたように思う。ひき逃げも以前に比べて多い。ついでに言うならあおり運転が増えたことも異常。ドライブレコーダーが普及し、厳罰化されたことも知っているはずなのに。

 最近ネットでよく見かける理不尽な批判も尋常じゃない。自分が一番正しいと思い込んでいるとしか思えない。迎合しないものは徹底的に攻撃する。明らかに社会性が欠落している。要するに、他者を批判することで自己を正当化しているつもりなのだろうが、実は異常なのは書き込んだ側であることを証明してしまっているパターンだ。この傾向は、弱者に詰め寄るクレイマーや、やたらとマウントを取りたがるママ友ボス、職場のパワハラ上司にも見られる。さらに新手の事例として最近注目されている迷惑系Youtuberや、飲食店の迷惑行為など、あれだけ騒がれてもまだやるか、という感じ。なぜこれほどまでに自己肯定感が失われてしまったのか。社会のゆがみが原因と言ってしまえばそれまでだが、何はともあれ、どう考えても異常。だって、僕やあなたのような普通の人は、やれと言われてもできないでしょう。そこの線引きははっきりさせておかないとね。

 こうした傾向を持つ人は、勿論昭和の時代にも存在した。だが、その数は限定的だ。今では、こうした事例は掃いて捨てるほどある。そこで問題になるのが、実際に増えているのか、それともネットの普及のせいで目につくことが多くなっただけなのか、ということだ。前者だとすれば勿論大問題だが、後者でも別の問題を生む可能性がある。「一般化」というやつだ。「慣れ」と言ってもいい。

 TVしかなかった時代には、こうした問題は「事件」として取り上げられるだけだったが、今はネットがあるから、警察沙汰にならなくても、一般人が投稿する「事例」として数多く目に入る。こうなると、見る側が気付かないうちに、意識の中で一般化して(慣れて)しまう恐れがある。「世の中はそんなもの」「それが普通」という意識が知らず知らずのうちに芽生え、何気なく黙認してしまう懸念がある、ということだ。付け加えて言うと、ここ十数年に生まれた世代にとっては、そんな現状が「標準」になる。何しろ彼らは比較できる時代を知らない。昭和を知る世代は、それと比較して現代がいかに異常かに気付くことができるが、彼らにはそれができない。これって怖くないですか?

 こうした一般化(あるいは慣れ)の問題は、一つ一つの事例よりも危険だ。気付かないうちに進行することだからね。その上、こうした事例はネット上で規制される類いのものではないから、見る側が何が異常で、何が異常で無いかをしっかり判断するしかない。ということになると、前提として判断する側が何らかの基準を持っていることが必要だ。一般的には、その基準を構築する機会を与えるのが「教育」ということになるのだろうが、果たして現代の教育現場にその余裕があるだろうか。最近の事件や事例を見ていると、不安を禁じ得ない。何しろ学校は、今や名うてのブラック企業だからねえ。考えれば考えるほど、なんとも面倒くさい時代になったものだ。

 人間は社会的な動物だ。「社会性」という言葉を調べると、必ずと言って良いほど「他者との関係性を重視し、円滑に維持しようとする性質、またその能力」といった類いのセンテンスが出てくる。しかもそれは、「人間の持つ特性」だという。だがいつの時代にもそれができない人が一定数存在した。そういう人を昔は「人でなし」と言った。なるほど、実に上手い表現だ。つーか、まんまだな。