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 キャリア教育その他

 だいぶ前のことで恐縮だが、6月頃、SNSのニュースで「文科省はどこまで子どもたちを管理したがるのか」という記事を見た。そこには「高校生たちが自分の将来の夢と、それを実現するための計画を考え、期日までに提出するように求められてうんざりしている」とあった。これは多分、「キャリア教育」、もしくはそれに準ずる授業のことだろう。

 「キャリア教育」とは僕が教師をしていた頃に生まれた用語だ。いわゆる「進路指導」の一種で、自分の将来についてより具体的・現実的に考えさせようとするものだ。だがこれは将来の夢について思いを馳せることとはちょっと違う気がする。「夢」というより単に「予定」を立てているだけだ。意味が無いとは言わないが、まだ将来に夢を持てない生徒は、授業のために夢を考え出さなければならない。そうでもしないと夢を持てない子どもが増えてきたのも事実だが、強制されて紡ぎ出した、現実的な情報に裏付けられた将来設計はもはや夢とは言えないだろう。

 最近の学校教育はよくわからないことが多い。勤務時間の見直し(短縮化)を謳いながら、現実には仕事が増えていく。例えば、近年新しく導入された「道徳」の評価もそのひとつだ。道徳のような抽象的な価値観を評価させられる教師側は、その評価規準を作るだけでも大変だろうし、現場で使える時間は無限ではないから、作業の効率を考えれば、誰でも間違いを犯すことなく評価できる形式的なものを作らざるを得ないだろう。僕も教職経験者なので、現場の苦労はよくわかっている。教育の現場は理論だけでは語れない。それを理論しか知らないセンセイがた(「先生がた」ではない)がいろいろと理想論をぶち上げるもんだから、現場は混乱するし、生徒は追い込まれる。そんな状況で教育が上手くいくわけがないことは、素人目にも明らかだろう。

 だいぶ前に学校の教科書がB版からA版に変わった時もそうだった。変更の理由は「世界基準に合わせるため」。大人の理屈でランドセルが一回り大きく、重くなり、小学校の1年生にとっては大荷物となった。後ろから見ると、まるでランドセルが歩いているようだ。教師時代に中学生のリュックを何度か持ったことがあるが、これも信じられない重さだ。今の子どもにどれだけ腰痛持ちがいるか、知ってます?文科省。最近のランドセルのCMを見ても、お兄ちゃんが「たくさん入るのを選んだ方が良いよ。」違う!問題はそこじゃない。この期に及んで何を言ってるんだ。 

 教育の無償化だって矛盾している。義務教育では授業料や教科書はもともと無償だ。だが副教材というものがある。問題集や資料集のことだ。一括購入して学校が集金する。しかも学校によって使用するものが異なるので、一律に無償化というわけにはいかない。さらに学習塾のこともある。今の状況では、結局多額の出費は避けられないのだ。

 文科省が教職員志望者を増やすために、教師のやりがいなどを書いてもらおうと、ネット上に「教師のバトン」というページを開設した。しかし書き込まれた内容は苦労話や苦言ばかりで、現場のブラックぶりが明らかになっただけだった。教育の総本山である文科省が、現場の状況や、そこで働く教師の心情を理解できないのだから、上手くいくわけがない。子どもの心情を理解しようなんて、夢のまた夢だ。

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 「お国のために」再び

 時々政府が、日本の学力の平均点が国際的に落ちてきていることを問題にするが、僕に言わせれば大きなお世話だ。国際競争力を向上させるために教育内容を増やし、生徒はもちろん、学校の先生たちも点数を上げるために四苦八苦している。だがこれらの努力は生徒一人一人の幸せとどんな関係があるのだろうか。 平均点とはただのデータであって、その中にはすごくできる子もすごくできない子も含まれている。すごくできない子の中には、貧困が障害になっている子も少なくない。そのへんの手当はできているのか。さらに、教育ということを真剣に考えれば、学力が高ければ良いという問題ではないということは誰にでもわかる。現に学力が高くても、殺人を犯す中学生がいたではないか。平気で弱者をいじめる子どももいるではないか。学力の土台となるもの、そのひとつである公徳心とか人間性を、今の教育はきちんと身につけさせているだろうか。ここで言う教育とは学校教育に限った話ではない。家庭教育についても同じ事だ。僕の経験からすると、家庭にも学校にも、そんな余裕はない。メディアや教育産業が不安を煽るので、生徒や保護者は誰もが塾に通わなければいけないような錯覚に陥っている。ある極端な例では、子どもが帰宅する時刻は午前2時だ。このことに対して学校は何も言えない。営業妨害になる恐れがあるからだ。実際に訴訟問題も起きている。さらに学歴が低いことに対する偏見も根強く残っている。教師や親が子どもの前でうっかり口を滑らせて、学歴が低いとろくな仕事に就けない、などと口走る。ではろくでもない仕事とは?従事者の前で明言できるのだろうか。

  ある時、テレビで「今の若者は鶏肉がどんな鳥の肉か知らない」事を話題にしていた。下の娘(大学生)が       「なんであんな事がわからないんだろう?」         と言うので、僕はこう答えた。              「学校で教わらないからさ。」

 今の子どもたちは学校で授業を受け、部活動の後は塾へ行く。勿論全員ではないが、それが主流になっている。塾は部活動が終わる前に授業が始まる場合があって、当然生徒は部活動を休むか、中途で切り上げて、いそいそとお迎えの車の中へ消えていく。帰宅時刻はかなり遅い。帰宅した時には疲れ果てている。つまり、学力をアップさせるために、1日のほとんどの時間を費やしている。他の活動で知識を広げる余裕など無い。つまり、鶏肉がにわとりの肉であることや、鮭は切り身で泳いでいるわけではないことを教えてもらう機会も無いということだ。こんな常識的なことは、もちろんテストには出ないから、そんなこと誰も気にしていない。文科省、わかっているのかなあ。これが中学生の現状なんだよ。そういった問題に気づきもせず、学力の国際競争力を問題にする。「お国のために」、今度は人間形成に最も大事な時期を捧げろというのだろうか?もう一度言うが、学力という分野における国際的な競争に勝とうが負けようが、騒いでいるのは政府であって、子どもたち一人ひとりの人生にはたいした影響はない。やるべき事はもっと他にある。

 うちの娘たちと僕はとても仲が良い。だから話す機会も一緒に行動する機会も多かった。そんななかで娘たちは色々なことを覚えていった。もちろん鶏肉が何の肉かも知っている。僕は娘たちを塾へは行かせず、勉強も教えなかった。かわりに何のために勉強するのかを考えさせ、勉強の仕方を教えた。良い本を紹介し、素敵な映画を見せたりもした。そのことによって特に人より劣ることもなく、楽しく生活できているようだ。それで良いではないか。