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  年齢不詳

 今日は2021年1月12日。なんとか年は明けたが、新型コロナのおかげでなんだかちっともそんな気がしない。つい先日、2度目の緊急事態宣言なんてものも出てしまったし(幸い僕の住んでいる地域は現在対象外)。この状況は,いったいいつまで続くのだろう。まったく、厭になっちゃうな。

 さて、お気づきの方も多いと思うが、僕はこのブログを立ち上げるにあたって、現在の職業や年齢があえてわかりにくいように書いている。一般的な意味で言うところの匿名性を重視しているわけではなくて(はじめは実名で書こうと思っていた)、具体像が明らかになると、多くの支障があることに気付いたからだ。

   今までの記事を読めば、僕の年齢などは何となくわかってしまう人もいるのではないかと思う。一時期教員をしていたことは明記してきた。美術系の大学に通っていたことも書いたっけ。でも、それ以外のことについては、特に先入観をもたれそうなことは伏せている。その方が読者が読みやすいと考えたからだ。面白い実例を挙げましょうか。

   皆さん、学校に通った経験はあるでしょう?学校には良い先生も、気に入らない先生もいたはずだ。さらに、校長先生、なんていう人もいて。そこで、ちょっと思い出してみてほしい。集会の時、「校長先生のお話」を毎回真剣に聞いていた人、どのくらいいます?あんまりいないんじゃないですか?じゃ、次は、ちょっと考えてみてください。なぜ生徒は「校長先生のお話」を聞かないのか。実は、ほとんどの生徒は「校長先生のお話は、内容が真面目でつまらない、しかも長い」と思っている。今までの人生のどこかでそういうイメージが作られ、それが先入観を持たせてしまうのだ。こうなると、校長先生がどんなに素敵な話をしたところで、生徒の耳にはなかなか入らない。折角の話が無駄になってしまう。実はこの先入観というのがやっかいな代物で、例えば、自衛官が「国防は大事だ」と言うと、「自衛官なら当たり前の意見だ」と思うだろう。「この人なら、こう言うに決まっている」という先入観のなせる技だ。だが自分に近しい、普段国防の話なんてしない人物が同じ事を言うと、聞く側の受け方がまるで違ってくる。「なぜこの人がこんな話を始めたのだろう、この人はどんな考えを持ってこう言ったのだろう。この話、どう発展していくのかな?」というふうに。

 言語によるコミュニケーションでは、これはとても重要な問題で、発信者がどんな人物かによって(その人物についての情報量が多ければ多いほど)、その印象は大きく違ってくる。それならば、語り部はただの語り部でしかない、というのが一番望ましいのではないか。僕にはそう思えてならない。特にブログのような、文字によるメディアではなおさらだ。だから僕は、それぞれの文章について、それがよりわかりやすくなる情報は開示するが、決定的な人物像や「イメージ」を持たれないような工夫もしているわけだ。

 さらにもう一つ。僕のように、例え一時期であっても教員を経験した人間はたくさんの人と接した時期があるから、実名や住んでいる地域が明らかになると色々としがらみが生じて、書きたいことを書きにくくなる。それも避けたかった。そういったわけで、このブログでは最低限のニュートラルさは維持しておきたいと思っている。