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 星に願いを

 TVでディズニー100周年を記念する番組を見た。主にアニメ映画にスポットを当てた、なかなか良い番組だった。ただ惜しいことに、放送時間はたったの45分。こういう番組こそ、90分枠で制作してほしかったなあ。

 ディズニーの映画といえば、実写も含めておとぎ話の要素が強く、最近ではSFチックなものも多い。これはまあ、イギリスのハードSF作家であった故アーサー・C・クラーク曰く、「科学技術が申し分ない進化を遂げれば、それは魔法と見分けがつかなくなる」ということだから、ちょっと乱暴だがひとくくりに考えても良いだろう。でも余談ながら、魔法やおとぎ話を駆逐してきた科学の行く末が「魔法と見分けがつかない」という発想は、これはこれでちょっと楽しいかも。

 さて、ディズニーのアニメは子供に夢を与え、大人には自分が子供だった頃への郷愁を与え続けてきた。昔の子供は願い続けていれば夢が叶うかもしれない、なんて本気で信じていたに違いない。だが最近の子供は、物事の裏側をちゃんと理解していて、「日本語版の主人公の声は○○が当ててるんだって」「あ、○○が出てるんなら見ようかな」なんて言い出す。いやいやいや、そういうことではありますまいよ。

 そこでちょっと気付いたことがある。それは今の世の中って、なんだか大人と子供の境が曖昧になってやしないか、ということだ。例えばサンタクロースの存在をどこまで信じるか、という命題一つとってみても、そんなもの鼻から信じない、人生に疲れた大人みたいな子供が増えているんじゃないか。考えてもみてくださいな。一時(いっとき)でもサンタを信じた経験のある子供は、後々その時の期待に満ちた感情や、何かを信じようとする心を思い出すことができるんですよ。でもサンタの存在を信じることなく大人になった人にはそれができない。これって、ちょっと寂しくないですか?

 加えて最近、他人の揚げ足をとるような言動をする大人が増えてきた。映画を作る側も批判を恐れてか、オリジナルのイメージをぶち壊すような演出をあえてすることがある。またしてもサンタの例で恐縮なのだが、最近の映画では黒人がサンタだったりすることがあるのだ。登場するキャラクターの人種に偏りがあってはいけない、なんて意見があるからだそうだ。だがよく考えてみてほしい。サンタクロースの起源がローマ帝国近隣地域の司祭セント・ニコラウスであることを念頭に置けば、サンタが黒人ということはまずあり得ない。東洋人にしても同じ事だ。大人の都合でオリジナルの概念をぶち壊してどーすんだよ、なんて思ってしまう。

 そんな大人が作った社会の中で育つ現代の子供は、なんだかかわいそうな気がする。考え方自体が制限されることに慣れてしまって、反抗期を持たない子供も増えているそうだ。これは単に良い子に育ったわけではなくて、大人の顔色をうかがうことに長けているだけなのかもしれない。そんなの、もう子供じゃないでしょう。絶対どこかに歪みが生じるはずだ。そして反抗期が遅れてやってきたような大人げない大人が、世間を騒がす馬鹿みたいな事件を起こす。そんな気がしてならないんだけど。

 ところで僕が一番好きなディズニーアニメは、なんといってもピーターパン。大人になりたくない子供たち、というコンセプトにも、大人の代表のようなずる賢いフック船長と、その片腕ながら心根は優しいスミー君の存在にも、何か深いものを感じる。そして何よりも、夢の世界から帰ってきた子供たちが、月光に照らし出された帆船のような形の雲を指さし、「あの船に乗って帰ってきたんだ!」と主張するのを聞いて、お父さんがそれを否定することなく「いや待てよ!父さんも昔、あの船を見たことがあるぞ!」と叫ぶシーン。それを見てお母さんが嬉しそうに微笑む。なんて優しい大人たちなんだろう!いや、もしかしたらこのお父さん、小さい頃本当にネバーランドに行ったことがあるのかもしれない。そしてそのことを今も忘れていないのかも。

 僕は思う。子供は子供として生きる時間を保証されるべきだ。子供時代に育まれた思いや憧れは、大人になって現実というものを知った後も、生きる上での力になるからだ。ウォルト・ディズニーがやってきた仕事って、そういう事なんじゃないのかなあ。え?じゃあ、大人はもういいのかって?いやいや、大人だってディズニーの映画見るでしょう?時には何かを信じて、星に願いを掛けてみたっていいんじゃないですか?だって、そもそも「星に願いを」掛けたのはピノキオを作ったゼペットじいさんなんだし。何、今まで何度も願掛けをしてきたのに、叶ったことは一度もないって?だからって次も叶わないとは言い切れないでしょうが。何かを信じるとは、つまりそういうことですよ。

「星に願いを」はディズニーの長編アニメ映画「ピノキオ(1940)」の主題歌。