大洗の月
井上靖の小説に「大洗の月」という短編がある。これが好きだ。書かれたのは昭和28年というから、当然僕の知らない時代だ。ましてや現代の若い人には想像もできないだろう。主人公である佐川が常磐線の水戸駅から大洗まで利用したタクシーは、悪路を予想して「車体の良さそうなの」を選んでいるし、15㎞ほどの行程の途中でラジエーターの水を補給している。どちらも今ではあり得ないことだ。さらに特急とおぼしき列車が、上野から水戸まで2時間近くかかっている(今だと最短で1時間あまり)。
40代の主人公、佐川は東京で小さな会社を経営しているが、最近会社にも自分の人生にも「滅びの予感」を感じ始めていた。そんなある日、今日が「中秋の名月」の日である事に気付いた彼は、ふと思い立って、月を見るためにひとり茨城県の大洗を訪れる。そこでの出来事や出会いが静かに、淡々と語られていく。
初めて読んだのは大分前、まだ若かった頃だが、中年と言われる世代に足を踏み入れてから、ここで語られる「滅びの予感」という言葉が頻繁に思い出されるようになった。40代と言えば、普通は就職し、結婚し、子どもをもうけて、人生の要素をある程度成し終えたあたり。自ずと先も見えてくる。勿論時代も違うし、そもそも僕はそう簡単に滅びるようなタイプじゃないが、なぜかこの作品には不思議と共感を覚えたものだ。そういえば作中、佐川も「滅多なことではくたばらない」と形容されていたから、「滅びの予感」とは誰にでも訪れる老いの兆し、もしくは最盛期を過ぎた者の感じる憂いのようなものなのかも知れない。
前半、列車が進み、車窓の風景が田舎のそれに変わっていくにつれて、主人公のモノローグが内省的になっていく文章構成が印象的で、さらに後半の登場人物をモブキャラ(その他大勢)を含めて切り詰めることで、一人一人の登場人物が際立っている。何しろ大洗では、主人公が行動するのは夜が更けてからで、街灯に照らし出された通りには人っ子一人見当たらない。今でこそガルパン(「ガールズ&パンツァー」、大洗を舞台にしたアニメ)の聖地として全国区となったが、昭和20年代の大洗と言えば、夏は海水浴客で賑わうものの、普段は小さな漁師町に過ぎなかったのだから無理もない。
井上靖とその近親者には遁(とん)世(世を捨てる、世間から逃れる)的な心情をもつ者が多かったらしい。その影響か、彼の作品にそのような境遇の人物が登場するものも多い。「大洗の月」の後半で主人公が出会う、年老いた日本画家もまさにそれで、彼は世をすねているようでいながらある種の充足感を感じていて、けっして俗福とは言えない今の境遇に、納得して身をゆだねているように見える。それは本文中の「会った瞬間から、否応なしに好感を感じさせられていた。ふしぎに厭なところがなかった。」という文章からも伝わってくる。こうした印象は、常に競争心や焦燥感をもち、それを充足させようと躍起になっている人間からはなかなか感じ取ることができないものだ。その後に続く「灰汁がすっかり抜けてしまって」という表現も、人生の酸いも甘いも早々に経験し終えた者だけが達する達観した境地を表しているとも考えられる。ここに至って雲間に隠れていた月がやっと顔を出すのも象徴的だ。そこには全てが肯定されたかのような、静かなカタルシスがある。
井上靖本人は新聞記者時代、競争心旺盛な同業者になじめず、本人曰く「麻雀で言えばおり」た経験をもつ。「おり」るのが少々早すぎた感もあるが、その後の華々しい経歴を見るととても遁世的には見えない。しかし作家として成功しながらも、本心ではこの、隠遁生活送る老画家のような境遇に憧れ続けていたのかも知れない。
(引用は全て新潮文庫「姥捨」による)