大人の考え、子どもの感性
そろそろ12月。クリスマスもすぐそこまで来ている。毎年この時期になると思い出すことがある。
もう20年以上前の、長女が小学校に上がる前のこと。誕生日のプレゼントを買うために、僕らは家族総出でトイ○○スを訪れていた。長女は半年前のクリスマスに「101匹わんちゃん」のぬいぐるみを手に入れていたので、今回はその「わんちゃん」たちのためにほ乳瓶を手に入れようとしている。長女が目をつけたのは10センチあまりの、ミルクとオレンジジュースの入ったほ乳瓶のセットだった。価格は確か1,000円に満たなかったと思う。他にももっと高価な、凝った作りのものもあったのだが、長女は「わんちゃん」たちには大きすぎるという。子どもながらにいろいろと考えているらしい。僕が「まあ良いんじゃないか。本人が気に入っているんだから」と言うと、祖母が反対した。せっかくだからもっと良いもの、高価なものを買ってやれと言うのだ。僕が長女に他に欲しいものが無いか聞いてみても、ほ乳瓶は前々から考えていたものらしく、「これが良い」と言う。「本人が一番欲しいものを買ってやるんだから、これで良いだろう」と主張する僕に、祖母は不服そうだった。最終的にはほ乳瓶の他にあと二つの品物を購入して丸く収まったのだが、こういったことは、実はよくあるらしい。
同じくクリスマス間近のトイ○○スでこんな光景を見た。若い両親と祖父母。幼い子どもが二人。一人は父親の背中で眠ってしまっている。もう一人は母親の手を引っ張って「あっちがいい!」と大騒ぎしている。そんな子どもたちをよそに、大人たちは「これが良いんじゃないか」「いや、こっちの方が・・・」と、家族会議に没頭している。僕はそれを見て思った。「誰も子どもの意見を聞いてねーな。」子どもを喜ばせるための買い物だったはずが、いつの間にか大人の自己満足のためのそれに変わってしまっている。
以前どこかで書いたバタークリームのケーキ。母は着色料を気にしてイチゴショートのクリスマスケーキを買う。だが僕は、色とりどりのクリームで飾られたバタークリームケーキが好きだった。イチゴショートは当時、高価でもあったから、母にしてみれば子どもを思ってのことなのだろう。だが子どもからすれば、欲しいものを買ってもらえない歯がゆさばかりが残るのだった。
子どもはある程度の年齢になると、大人に気を遣うようになる。教員時代に、クリスマスや誕生日のプレゼントで、頼んだのと違うものが届いてがっかりした経験があるかどうかを生徒(中学生)に聞いてみたことがある。すると、過半数がそういう経験をしていることがわかった。そんな時どうしたか聞くと、さらにその半数ほどが「仕方が無いから喜んでいる振りをした」そうだ。親をがっかりさせたくなかったんだってさ。