カテゴリー
未分類

 異常な夏

 今年の夏、違和感を感じることが多々あった。なかでも、僕の住んでいる地域で、7月の末からミンミンゼミとツクツクボウシに加え、秋の虫までが鳴き出したのには驚いた。昨年も確かにそんな傾向があったが、今年のそれは尋常じゃない。しかも2年連続。3~4年前までは、7月末にミンミンゼミやアブラゼミが鳴き始め、ツクツクボウシが8月の後半に鳴き始めるのを追いかけるように、秋の虫が鳴き始めるのが普通だった。それを考えると、ここ数年の「前倒し」現象はなんとも不吉な感じがする。

 実は今年、例の「夏の遊び」をまたやってみた。これは早朝に庭を巡って蝉の抜け殻を探す遊びで、去年だかおととしには400個超の抜け殻を見つけた。あれはすごかった。今年はおよそその半分、しかも盆前にはほとんど見つからなくなった。これだと8月の末には蝉の声が聞けなくなりそうだな、なんて思っていたら、案の定、ツクツクボウシも含め、8月の27日にはほとんど聞こえなくなってしまった。夏の気候はまだまだ続いているというのに、妙に静まりかえる夏の雑木林は、前記したとおり、なんとも不吉な雰囲気があった。まるで海外のホラー映画を見ているようだ。例年だと9月に入ってからも「まだ鳴いてるよ」というのが普通なのに。一体、何が起こっているのだろうか。

 以前、「そのうち日本の季節は夏と冬だけになってしまうんじゃないか」と書いたことがあるが、今年、誰かが「これでは四季じゃなくて二季だ」と書いているのを見つけて、みんな同じようなことを感じているんだな、と思った。それほど、最近の日本の四季の変化は大雑把なのだ。子供の頃、さらに言うなら教員をしていた頃も、ツクツクボウシが鳴き始めると「ああ、夏休みが終わってしまう」なんて寂しく感じたものだが、このままだと、そういった微妙な季節感の変化はもうなくなってしまうのではなかろうか。蝉の鳴く時期のような小さな変化でも、それが続くようであれば、俳諧の世界でさえ季語が再編されるようなことが起こるかもしれない。

 それにしても、何十年も慣れ親しんできた季節感というものが、こんなにも大切なものだったとは!無意識のうちに享受していたんだなあ。願わくばこの状況が、ここ数年に限った特別な状況でありますようにと祈るばかりだ。

カテゴリー
未分類

 日本語の語感 

 今日、初めて蝉の声を聞いた。と言っても、ミンミンゼミやアブラゼミのような王道ではなく、明け方どこからともなく聞こえてくる単調なあれだ。

 七夕が過ぎたばかりで、関東はまだ梅雨も明けていないが、蝉の声を聞くと一気に夏を感じるのは僕だけではないだろう。この後梅雨が明ければ太平洋から白南風(しらはえ)が吹き込み、本格的な夏がやってくる。

 南風(はえ)というのは、夏に太平洋高気圧が南から運んでくる熱風のことだ。梅雨時期の湿った風を黒南風(くろはえ)、梅雨明け以降の乾燥した風を白南風(しらはえ)と言う。こうした日本独特の語感が何とも好きだ。だいたい、南風と書いて「はえ」と読ませるなんて、当用漢字ではあり得ない。そう言えば、「城ヶ島の雨」という歌曲の歌詞に「利休鼠の雨が降る」というのがある。別にネズミが雨のように降ってくるわけではなくて(それはほとんどホラーですね)、あの有名な茶人、利休が好みそうな渋い灰色の雨が降っている、という意味だ。この「利休鼠」という色を実際に利休が好んだという事実はなく、「好みそうな」と、勝手に判断しているところが面白い。色としては緑がかった灰色で、「りきゅうねず」と読むのが正しいそうだ。しかし、なぜ「ねず」で切ったんだろうねえ。

 昨年2月にプチ入院したエピソードでも触れたが、「東雲(しののめ)」とか「暁(あかつき)」などといった語感も好きだ。色の名前にも「浅黄(あさぎ)」とか「萌黄(もえぎ)」など、良い語感を持つものが多い。面白いのは、同じ「あさぎ」でも、「浅黄」だと黄緑系なのに、「浅葱」と書くと青系の色になる。そういえば、20年以上前にある通販サイトで「500色の色鉛筆」というのを買った。今もリビングに飾ってあるが、この色名も凄かった。「クレオパトラの朝食の蜂蜜」だの「ジュラ紀のアンモナイト」だのと、よくもまあ500通りもこじつけたものだと感心してしまう。別に茶化しているわけではない。実際そのセンスはなかなかオシャレだった。ただし、鉛筆自体は「この色とこの色、どこか違うか?」なんていうこともあってちょっと笑える。

 ところで、この曖昧とも言える日本語の語感の形成は、いったい何に起因しているのだろうか。僕が思うに、ひとつは四季の変化。狭い国土であるにも関わらず、その変化が比較的大きいこと。そうした変化の中で夏に憧れたり、春を待ちわびたりするうちに感性が磨かれ、「歳時記」や、俳句における「季語」などという季節感を大事にする文化が育まれていった。そして同時に「うるさいな。まるで5月のハエみたいだな。よし、五月蠅と書いて『うるさい』と読ませちまおう」などという訳のわからないセンスが育まれた・・・かどうかはわからないが、そんなレベルの思考の流れが多分あったのだろう。そしてもう一つがアニミズム。

 日本では八百万(やおよろず)の神がいるだけでは事足りず、なんにでも魂が宿ってしまう。使い古した道具を粗末にすると祟られる、なんていう話もあるぐらいだ。つまり何にでも容易に感情移入できる特質。こうした要素が相まって、初夏を麦秋(麦にとっての収穫期=秋)と読んだりする独特の感性や価値観が形成されていったのではなかろうか。他に考えられるとするならば、まあ適当なんだろうね、良い意味で。だって「南風=はえ」とか、当て字にもなってないもの。

 これから盛夏を迎え、8月下旬になるとミンミンゼミやアブラゼミの声が次第にツクツクボウシに変わっていく。空にはトンボが目立ちはじめ、水田は黄色く色づいていく。こうした微妙な変化を無意識のうちに感じながら生活してきたのが日本人なのだろう。

 僕の愛読書に「一度は使ってみたい 季節の言葉」というのがある。著者は長谷川櫂という現代の俳人。俳句の季語を、それにまつわるエピソードを紹介しながら解説している。お堅い本ではなく、気軽に読める体裁だ。水野克比古という写真家の写真が添えられていて、これもなかなかいい。後に続編も出版された。ちょっと気分を変えたいときなどに重宝している。残念ながら今は絶版だと思うが、どこかで見つけたら、ぜひ目を通してみて欲しい。こんなに多種多様な日本語があったのか、と驚くこと請け合いだ。

 2ページでひとつの言葉を解説している。それぞれに写真が1枚。このページでは「端居(はしい)」という言葉について触れている。「夏の夕暮れ、縁に腰かけて一抹の涼を探るのが端居である」とある。

カテゴリー
未分類

 僕らの夏を返せ!

 以前海外のメーカーが、プロペラのない扇風機(プロペラがないのだからこの表現は本当は間違いだ)を開発した。初めのうちは、 「へー、どんな原理なんだろう」 と、興味津津だったが、やがてある重大な欠陥があることに気がついた。そして、この欠陥は夏の少年少女たちの夢を壊しかねないものだった。僕らの夏を返せ!

 説明しよう。 僕も、そして貴方も多分、子どもの頃に一度はやったことがあるはずだ。プロペラ式扇風機のスイッチを入れ、その前に座る。そして、おもむろに、 「あーーーーーーーーー。」                と声を出す。もうおわかりだろう。その声はプロペラが空気を叩く衝撃波に影響され、                 「あ あ あ あ あ あ。」 と細切れになって聞こえる。誰に教わるでもなく、経験的に覚えていく遊びだ。だがプロペラがないと、この現象は起きない。もしこの海外メーカーの新型扇風機が、エアコンと相まって擡頭(たいとう)することになった暁には、あの遊びは子どもたちの夏から永遠に駆逐されてしまうことだろう。

 誰もめったに口にしないが、誰もが知っている、あの夏の風物詩がこうしてまた一つ消えてしまうのだろうか。断じてそんなことがあってはならない。今こそ我々は立ち上がる時なのだ。声を大にして、もう一度言おう。 「僕らの夏を返せ!」