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 喫茶店哀歌(2) ブレンドの魅力

 以前豆にこだわって珈琲を飲む話を書いたが、今回はその番外編。

 通常喫茶店のメニューは一番上に「ブレンド」が記載してある。ほとんどの場合、価格が一番安い。(昔は次が「アメリカン」だったけど、今では絶滅してしまったようだ)そしてこの後に各種のストレート珈琲が続く。もちろん逆の場合もある。通を気取るスノッブな人たちのなかには、ブレンド珈琲には目もくれない、なんて人もいるようだが、ちょっと待て。ブレンドにはブレンドの魅力というものがある。

 ブレンド珈琲には二通りあって、一つはその店に豆を卸している業者があらかじめブレンドして納入しているもの。つまり同じ業者が入っている店はみんな同じ味。これはまあ、それでよしとしましょう。侮れないのはもう一つのほうで、これはこだわりを持つマスターが自分で豆をブレンドして作り出した、その店オリジナルのものだ。その店の顔と言ってもいい。しかも可能性は無限大。だから、店によってはブレンド珈琲を試してみるのは大いに意味のあることなのだ。そう考えてみると、「ブレンド探しの旅」あるいは「ブレンド行脚」などという楽しみ方もできそうだ。これって、すでに実践している人がいそうだな。僕はやらないけど。

 うちの近場にある店などは、マスターが豆の産地までわざわざ出かけていくほどの凝り性で、マスターがそんなふうだからブレンドも数種類あって、それぞれに特有の味わいがあり、固有の商品名までついている。価格もそれ相応で、こうなるともう「作品」。行く度に違うブレンドを味わってみたくなる。

 話は変わるけど、京都には昔、独自のブレンドを注文できる店があった。例えば「コロンビアとモカとブルーマウンテンを5:3:2で。」などと注文すると、そのブレンドを作ってくれた。今もやっているかどうかはわからないけど、なかなかに楽しい趣向だった。当時はインスタント珈琲にも同じようなシステムの商品があって、ストレート珈琲から作られたインスタント珈琲の小瓶を3本セットにして販売していた。これがあれば家でブレンドが楽しめるというわけだ。まだ結婚したての頃で、カミさんと面白がって購入したのはいいが、所詮はインスタント珈琲、残念ながら味は釈然としなかった。余談だが、このブレンド用インスタント珈琲の空き瓶の1本(グァテマラの瓶でした)は今、「出しの素(顆粒)」の入れ物になっている。

 使っている豆自体を売ってくれる店や豆を売るだけの専門店は以前からあったし、市販の豆や器具もかなり充実してきているので、今では自宅でオリジナルのブレンドを本格的に楽しむことも可能だろう。ただし、のめり込むと地獄を見るかも知れない。それほど奥が深いのが「ブレンド」の世界。ブレンデッド・ウイスキーに詳しい人は、よくおわかりのはず。

 さて、僕ぐらいの歳になれば、ほとんどの産地(コーヒー豆の)はすでに試している。焙煎方法や店の個性によってバリエーションは無限だから、味わい尽くしたなどとは言わないけど、最近では「もう凝らなくても良いかな」という気持ちが働くこともよくある。そんな時は何も考えずにその店のブレンドを注文することにしている。あるいは、ごくたまに脱線して、一緒に注文したバニラアイスをフロートにして飲んだりすることもある(要するに、やることがなくなってきたんだね)。アイスクリームが溶けるに従って味わいがマイルドになっていくその変化や、熱さと冷たさのコントラストが楽しい。浮かべたアイスクリームが漂ってきて唇に触れる感触は・・・おお、まさに氷の口づけ!(いい年して馬鹿言ってんじゃないよ)まるで「エンジェル・キッス(※)のようだ。家庭でも簡単に作れるので、ぜひ1度お試しあれ。

※ カクテルの名称。欧米では「エンジェル・チップ」。クレーム・ド・カカオとフレッシュクリームで作る、女性向きのカクテル。仕上げにカクテル・ピンに刺したマラスキーノ・チェリーをグラスの縁に渡す。グラスを傾けるとピンを軸にしてチェリーが転がり、唇に触れるので、日本では「エンジェル・キッス」と呼ばれている。

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 喫茶店哀歌 

 僕は珈琲が好きだ。一般的な意味で、マニアではないけれど。今でも豆にこだわって、たまに豆の種類で注文できる店で珈琲を飲む。ブルマンとかキリマンとかの略語を理解できる人は多分同世代。「ラテ」と聞いてイライラするならもう間違いなし。

 さて、そんな僕がスタバとかドトールとかに行くことはほとんど無い。理由は主に二つ。まずメニューに妙なバリエーションが多く、煩雑すぎること。そもそもこれらは「珈琲飲料」であって、「珈琲」ではないというのが僕の解釈だ。今は亡き志村けんが初老のサラリーマンを演じ、こういった店で注文に四苦八苦するコントがあったが、現実味がありすぎて笑えなかった。彼は一杯の珈琲を飲みたいだけなのだ。仕舞いには哀愁さえ漂っていた。

 往時の喫茶店では、むしろ飲み方のバリエーションを自分で楽しむのが通のやり方だった。例えば今日は砂糖を使おうかな、とか、ミルクを入れようかな、とか、砂糖とミルクを沈めておいて味変を楽しんだり、ミルクを浮かして先にまろやかさを楽しんだり。ミルクの注ぎ方一つでミルクを沈めたり浮かせたりすることができて、これが上手だとほんの少し尊敬されたりもした。要するに、運ばれてきた珈琲を自分でアレンジする楽しさがあった。そしてもう一つのこだわりが、珈琲カップ。

 凝った体裁の喫茶店では、豆ごとにカップの柄が決まっていたり、一目でブランド品とわかるカップを使用していたりしたものだ。だから使いたいカップを考えて豆を選ぶ、なんていう楽しみ方もあった。そして何よりも大事なのが飲み口、つまりカップの縁の厚み。モノの本には理想的な厚みが記載されていたりするが、これは個人の好みに負うところが大きいと思っている。ちなみに僕は飲み口の薄いものを好む。

 こうしたこだわりのある人が、チェーン店やコンビニでスチロールのカップに入った珈琲を注文するなんてことはまずあり得ない。厚みの問題以前に、その質感が許せない。紙コップもダメだ。仮に珈琲が美味しく入れられていたとしても、紙の匂いがして美味しいと感じられないからだ。一番腹が立つのは、あの蓋だ。小さな飲み口がついていて、そこから啜るようにできている。こぼさずに持ち歩くための工夫なのだろうが、あんなの珈琲の飲み方じゃない。プジョーのディーラーで1度、これで珈琲を出されたことがある。新形コロナ対策とかで、陶器のカップから切り替えたんだそうだ。面白がって試してみたが、やはりダメだ。何を呑んでいるのかよくわからない。仕方なく蓋を外して呑んだが、あの蓋はカップの縁の形状をキープする役割も果たしているらしく、スチロールのカップがフニャフニャ歪んで何とも心許なかった。

 スタバやドトールでは陶器のカップも使っていると聞いたことがあるが、もちろん店内用。だからといって長居するのに居心地が良いとも思えない。客席の距離感が密すぎる。この距離感の問題を3番目の理由としても良いぐらいだ。

 お気に入りの店で今日の気分に合わせた豆で注文し、今日の気分に合わせてアレンジしながらお気に入りのカップで珈琲を飲む。そしてそれを気兼ねなくできる適度な距離感。それが本来の喫茶店。悲しいことに、僕の住む地方都市では絶滅危惧種に等しい。だが店舗数が減ってきたことが幸いしてか、ノウハウに長けた店は現在も栄華を極めている。こうした現状を喜ぶべきか、悲しむべきか。難しいところだ。

 今では市販の豆も質が向上し、それなりの味を家庭で楽しむことができる。しかしながら、あの喫茶店という「場所」の持つ雰囲気はやはり独特のものだ。家でくつろぎながら飲む珈琲も良いが、実のところ家で珈琲を飲むためだけに時間をつぶすことは逆に難しい。家は日常を過ごす場所だからだ。たまにはその「日常」を離れて特別な場所に赴き、人任せの時間を楽しむのも宜しかろう。