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 15年ぶりの「魚三楼」

 前回も書いたように、京都に行ってきた。今回の旅にはいくつかこだわりがあって、そのうちのひとつが「魚三楼の弁当を食べること」だった。

 2009年の5月初旬、まだ教師だった僕は修学旅行の引率で京都に来ていた。生徒たちが二日目の班別活動をしている間、学年主任の僕は本部(宿)で待機。外回りの先生たちはチェックポイントを巡回しながら、昼食は好きな店で好きなものを食べることができるが、本部待機は出前をとるぐらいしか術(すべ)がない。それが面白くなかった僕は、添乗員にちょっとした「お使い」をお願いすることにした。宿は京都駅のすぐ近くで、JR京都伊勢丹の地下には料亭の京弁当を扱うコーナーがある。そこで弁当を買ってきてもらおうというのだ。

 僕は「5,000円までなら出す!」なんてことを言ったと思う。するとその熱意に負けたのか、3人の添乗員のなかで一番の若手が、この「お使い」を快く引き受けてくれた。彼は「伊勢丹の地下は行ったことがないので、後学のために見学を・・・」などと呟きながら出かけて行き、しばらくして「魚三楼」という料亭の弁当が届いた。3,500円ぐらいだったか、二段構えの立派なもので、これがとても美味しかった。今まで食べてきた弁当の中でもトップクラスだろう。

 その味が忘れられなかった僕は、8年後の修学旅行で再び駅近の宿に当たった時に、今度は自分で伊勢丹まで出向き、昼食用に魚三楼の弁当を探した。ところがこの時は早々と売り切れていて、次に入荷するのは3時過ぎだという。仕方なく他の店の弁当を買って帰ったが、この弁当は全く記憶に残っていない。

 そんなわけで、今回の旅では再度「魚三楼攻略」に挑戦した。一日目の夕食に弁当を食べる計画を立て、念のために宿に持ち込みの許可ももらった。弁当自体も予約が可能ということなので、伊勢丹のショップガイドで調べてみたところ・・・なんと、(当日の)火曜日は魚三楼の弁当の入荷が無いではないか!もしかして、僕は嫌われてるのか?一度ならず二度までも、夢は潰えるのか・・・いやいや、諦めてなるものか。そういう事ならこっちにも考えがある。最終日の昼食に弁当を買い、帰りの「のぞみ」のなかで食べればいい。そうすれば京都での活動時間も増える。一石二鳥だ。

 ということで最終日の昼、最後の望みをかけて伊勢丹のB2Fに赴く。予約する余裕がなかったことに加えて、もう1時近いので売り切れてやしないかと不安だったが、店に着くと、レジの後ろに掲げられたパネルに「魚三楼」と書かれた木札が掛かっていた。在庫がある印だ。よし、間に合った!こうして僕は、念願だった魚三楼の弁当をやっと手に入れることができた。実に15年ぶりのことだ。お値段は2,970円と、以前よりお安くなっている。それがちょっと気になるが、まあ良しとしよう。

 「のぞみ」の座席に座るやいなや、弁当を取り出し、包みを解く。おお、見覚えのある料理があるぞ。だし巻き卵、小芋を炊いたもの、鳥松風・・・久しぶりだね。元気だったかい?おっ、こっちは新顔か。海老彩りあられ揚げ?またまた、手の込んだことを。それにこの御飯。君にはいつも驚かされるよ。今回は新生姜御飯か。そこに鱧の鞍馬煮が添えてある。前回は上品な味つけの豆御飯と鱧寿司、それにおこわも入っていたっけ。なんだか前より少しやつれて見えるけれど、味わいはあの頃と変わっていないね。

 「魚三楼」は伏見にある老舗の料亭で、創業は1764年。格子戸には鳥羽伏見の戦いでできた弾痕が残っているそうだ。料理の方は伏見港で揚がる鮮魚と京野菜を中心に、伏見の名水を使って調理してある。ランチメニューは諸々込みで6,000円、弁当なら2,970円で食べられる。勿論お店で食べるのとは内容が大分違うが、それでも「魚三楼」を味わうことはできる。ちなみに夜の会席コースは10,000円~40,000円。一度お店にも行ってみたいものだが、食事のために伏見に宿を取り、数万円の旅費をかけるというのは、贅沢に過ぎるような気がする。やはり「事のついでに弁当」あたりが分相応ということか。

 2009年に食べた、確かこれは「母の日弁当」だったかな。箱は木箱だった。おかずは絢爛豪華、御飯も凝っていた。豆御飯の左にあるのは鯛の笹寿司。
 今回の「行楽弁当」。正直なところ、料理の格が少し下がったか。箱もスチロール製。このご時世に値を下げていることを考えれば、それも致し方ない。海老とトコブシが消えたのが寂しい。

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 夏と言えば怪談(その3)

 教師時代の修学旅行などにまつわる怪異譚を思い出したので紹介する。

一人多い

 ある修学旅行で、1日目、京都に向かう新幹線の中で発熱した女子生徒がいた。彼女は養護教諭とともに宿に直行、その足で病院に連れて行った。夜になって一行が宿に入ったところで合流。夕食を済ませ、熱も下がったので、グループとともに客室で就寝させた。

 翌朝、その生徒がぼくのところに来て言うことには、1日目のほとんどを宿で休んでいたために、寝付けなくて夜中に何度も目が覚めたそうだ。ふと気付いて、寝ているグループのメンバーを数えてみると8人いた。だが、彼女のグループは7人だ。もう1度数えてみたが、やっぱり8人。その生徒は部屋の入り口に一番近いところに寝ていて、室内は窓から入る街灯の光で照らされ、寝ている友人たちはシルエットになってよく見えたそうだ。怖いので入り口に向き直り、いつの間にか眠ってしまった。夜が明けてもう一度数えたときには、7人に戻っていたとのこと。

赤い橋

 3年生が修学旅行から帰ってきた。違う学年の担当だったぼくに、ある女子生徒が話してくれた土産話。

 2日目の班別タクシー行動で、あるグループがよせば良いのに、タクシーの運転手に心霊スポットに連れて行ってほしい、と頼んだらしい。運転手もその気になって、その筋では有名なトンネルに連れて行ってくれたそうだ。トンネルの手前には赤い橋があって、自殺の名所になっている、といえばわかる人にはわかる場所だ。メンバーがタクシーを降りてその橋を渡り始めると、1人が立ち止まって泣きだした。どうしたの?と聞いても、泣きじゃくるだけで何も言わない。そのうちその場にしゃがみ込んで放心状態に。これはまずいと、みんなでその生徒を抱え、タクシーまで戻った。赤い橋から離れてすぐ、その生徒は落ち着いたという。本人曰く、なぜ泣いたのか自分でもわからないそうだ。タクシーの運転手も凄く心配していたとのこと。そりゃそうだろうなあ。

裸足の脚

 「うちの家族はみんな霊感が強いんです」という男子生徒。修学旅行で宿泊するホテルに着くなり、茶化し半分に、「このホテル、どんな感じだ?」と聞いたら「結構ヤバイっすよ」という。

 翌朝、朝食の時に「昨日は何かあったか?」とたずねると、手招きでぼくを朝食会場の外へ連れ出し、「○○(男子生徒と同室の生徒)には言わないでください」と前置きして、「夜の11時頃、厭な感じで目が覚めたと思ったら、窓側から脚が歩いてきたんですよ。膝から下だけで、多分女。裸足でした。」「なんだって。窓から入ってきたのか?」「いや、窓の下の壁から湧いて出た感じッすね。それで、となりに寝ていた○○のベッドのそばまで行って消えました。残り2日間、やつが気にすると困るから、内緒って事でお願いします。」「お、おう、わかった。もし○○に何か変わったことがあったらすぐに言えよ。」「了解です。」幸い、その後は何も起こらなかった。

盛り塩

 ちょっと毛色をかえて宿泊スキー研修でのお話。2日目のスキー研修で、立て続けにケガ人が3人出た。そのうち2人は大事をとって救急車を要請。1日のうちに救急車を2度も呼ぶなんて初めてのことだった。幸い大事には至らなかったが、宿に戻ってびっくり。ケガをした3人は全員同じ部屋だったのだ。さあ大変。同室の生徒たちが「この部屋何かあるのかも!」とパニックに。仕方が無いので、宿の厨房にお願いしてそれなりの量の塩をもらい、ホテルの担当者にも断った上で部屋にまいた。残った塩は入り口と窓の両側に盛り塩に。気休めだが、とりあえず生徒たちは落ち着いた。翌日は何事もなく、無事研修を終えることができた。

おまけ コックリさんの呪い

 これはだいぶ前のこと。ある日の放課後、柔道部の部長が先生(僕のこと)に相談がある、と職員室にやってきた。柔道マンガに出てきそうな見てくれの大男だ。「なんだ?話してみ?」「ここじゃちょっと・・・。部室に来てほしいんですけど。」「なんだ、穏やかじゃねえな。」歩きながら彼が言うには、部室でコックリさんをやっていたら、どういう加減か最後に「全員呪う」と出てしまった。どうして良いかわからなくて、そのままにして相談に来た。そういうことらしい。まったく、お前らjkか?

 部室に着くとすぐ、僕はコックリさんの盤面(紙)を掴んで破り捨てて見せた。すると1人がそれを見てパニックに。「あっ!ダメだよ先生、コックリさんまだ帰ってないのに!先生も呪われるよ!」こりゃ重症だ。「そんな心配はない。嘘だと思うんならもう1度やって見ろ。オレが呪われたか聞いてみろ。」まさかホントにやるとは思わなかった。そして出た答えは、「先生は呪わない」。それを見た部員一同、「先生、すげー!チョー強ええ!」違う、そうじゃない。やれやれ、僕の株が上がっただけかい。

 結局彼等はその日の深夜に、どこで手に入れたのか、赤い鼻緒の下駄を近所の川に流しに行った(呪いを解く方法のひとつらしい)とのこと。後日よく言い諭して、2度とコックリさんはやらないと約束させた。

 どれも実際に聞いたり体験したりした話。考察は貴方にお任せします。

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 夏と言えば怪談(その2)

 前回触れた不思議な体験について。まず断っておくが、僕は「見える人」ではない。ホラー映画や心霊番組は好きだけど、実のところほぼ信じていないタイプだ。そこんとこ、よろしく。

 それは8年前、僕がまだ中学校の教員をしていた頃のことだ。その時僕は、3年生を引率して京都に修学旅行に来ていた。僕たちが宿泊したのは、京都御所の西側にあるそこそこ立派なホテルだった。通りに面する窓からは京都御所の木立が目の前に見え、交通の便を考えてもなかなかいい立地だった。ただ、ホテル内は全館禁煙だったので、喫煙者の僕はその都度正面玄関脇の喫煙コーナー(屋外)まで足を運ばなければならなかった。

 その夜、生徒を就寝させ、1回目の巡視を終わったところで、僕は一服するために喫煙コーナーまで下りていった。時刻は11時を過ぎていたと思う。煙草に火をつけてすぐ、目の前の堀川通りに目を向けると、歩道の右手、ずっと先の方に、こちらに向かって歩いてくる、夜目にも白い半袖のワンピースを着た女性が目に入った。別に不穏な感じはなく、こんな夜更けに若い女性が歩いているなんて、さすがは京都、などと脈絡のないことを考えていた。その女性、歳の頃は20代半ばぐらいか。ショルダーバッグを肩からさげ、ワンピースはベルテッドで、裾が膝丈ぐらいの上品ななりだったのを覚えている。となりの男性(その時は漠然とそう思った)と話をしながら歩いているようだが、暗い色の服を着ているのか、この距離ではよく見えなかった。だが彼女が目の前を通り過ぎる頃になって気付いた。一人だ。その女性は一人で歩いている。だが顔を右方向斜め上(僕から見て向こう側)に向け、両手で身振りを加えながら楽しそうに話し続けている。一瞬「スマホに話しかけているのかな?」とも思ったが、その顔はまるで身長180センチの男性が右どなりにいるかのように中空に向けられていて、両手を動かしながら話しているので、例えイヤホンを使っていたとしてもスマホはあり得ない。一番近い正面に来たときには、女性と僕の間には車寄せの植え込みと、喫煙所の格子状の目隠しがあったので、見間違いかもしれない。そう思った僕は女性が通り過ぎた後、何食わぬ顔で歩道まで出てみた。すると左手にすぐ交差点があり、信号待ちしている女性が僕からほんの10メートル足らずのところに立っていた。間違いなく生身の人間だ。街灯に照らされて、歩道に影も落ちている。だが、今度は真後ろから見ているにも関わらず、やはりとなりには誰もいなかった。それでもその女性は、相変わらず会話し続けている。中空に向かって、楽しげに。これっていったい何?僕には見えない誰かがそこにいるのか?それとも、この女性がそういう人なのか?それはそれで怖いぞ。やがて信号が青になると、女性はそのまま遠くの闇の中に消えていった。

 その後は何事もなく、無事に修学旅行を終えて帰ってきたのだが、不思議なことは自宅へ戻ってからも続いた。まず寝室の雰囲気が不穏になったこと。先に述べたように、僕はあまり信じない人なので、うちの奥さんのドレッサー(当然大きな鏡つき)があっても、よせば良いのに持ち込んだフランス人形があっても、怖いと思ったことは1度もなかった。それが修学旅行以来、何とも不思議な気配を感じるのだ。こんなことは初めてだった。それだけではない。当時まだ同居していた長女が「パパ、なんか変なもの連れて帰ってきたでしょう」と言いだした。自室の空気が変わったというのだ。僕が京都であったことを話すと、「あー、それだ、多分。」

 さらにある晩、リビングでテレビを見ていたときに、次女が突然僕を振り返って「止めてよ!」と言いだした。だが言った本人が僕の座っている場所と姿勢を見て、えっ!という顔をした。「なんだよ」と聞くと、「今・・・背中をつつかなかった?」と聞くので、「この体勢で手が届くわけ無いだろう」と言うと「だよね・・・えっ!じゃ今の誰?」と、軽いパニック状態に。すると長女が「ほらァ。やっぱり何か連れてきてるよ。」と笑った。この間、うちの奥さんはうたた寝をしていて何も気付いていない。一番幸せなタイプ。不思議に思うかもしれないが、うちはいつもこの程度の反応で終わる。脳内のどこかで、常に「まさかね」という思考が働いているからだろう。 

 次女の一件以来、家の中はもと通りになったようだ。その間、2週間ぐらいかな。実際に何か見たわけでもないし、おかしな事が続くこともなかったので、全部「気のせい」ということで一件落着。しかし、僕が京都で見たあの女性のふるまいは謎のままだ。女性自体は間違いなく生身の人間に見えた。そもそも、「見えない人」である僕に見えたのだから人間のはずだ。だが、あるいはもしかして・・・。 

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  JTBのAさん

 以前、僕は教員をしていたことがあった。そのほとんどの期間は中学校に勤めていたから、何度も修学旅行の引率をした。僕の住んでいる地域では、修学旅行といえば京都・奈良方面と決まっていて、京都なんて、プライベートを含めると20回近く訪れていると思う。そんな修学旅行の世話は旅行会社が請け負っており、毎回各社のプレゼンを聞いて担当する会社を決定する決まりだった。ある年、僕が主任をしている学年の修学旅行にJTBがつくことになった。担当はAさん。打合せのために何度も学校を訪れた。この人はまだ若いので腰が低く、いつも笑顔を絶やさず、それでいてちっとも嫌味な感じのしない好青年だった。僕は「せっかく高い金を払わせて行くんだから」と、無理難題を押しつけるのが常だったが、彼はいやな顔ひとつせず、むしろ自分も面白がって、いろいろな提案をしてくれた。夕食を宿で取らず、外食にしたこともあったし、東京駅から地元までの帰りのバスを地元の会社ではなく、あえて「はとバス」を使ったこともあった。どちらもAさんと僕で考えたアイディアで、この二つのアイディアはしばらく僕の務めていた地域のスタンダードになったが、僕らが発案者であることは、多分誰も知らないだろう。本当のことを言うと、はとバスに関してはほぼAさんのアイディアだ。そしてこれには訳がある。実はその前にやはりAさんと組んだときに、僕がとんでもない提案をしたことがあって、それをAさんが覚えていたのだ。

   2泊3日の修学旅行。当時3日目の昼食は新幹線のなかでとることになっていたのだが、その弁当の予算は高くても1,000円が相場だった。しかしその時、僕は2,600円の弁当を出すようにお願いしたのだ。Aさんはその型破りの指示に驚き、予算について心配していたが、当時はおおらかな時代だったので、何とでもなった。言っておくが、もちろん合法的に、だ。ではなぜそこまで弁当にこだわったのか。理由はその弁当の味と、体裁にあった。おいしいことは絶対条件だったが,その弁当箱は12升に区切られており、その一つ一つに京の12ヶ月に関する料理が詰め込まれていた。お品書きがついており、その料理がどこそこの寺や神社と関係することや、料理の由来が説明されていた。僕はAさんにこう言った。                   「帰りの新幹線に乗ってからも京都の余韻に浸れるし、自分の行った寺社の説明があれば良い復習になると思ってさ。修学旅行はうちに帰るまでが修学旅行って、よく言うだろ?」     このことを覚えていたAさんは気を利かしてはとバスを選んだらしい。彼はこう言ったのだ。                「先生は以前、家に着くまでが修学旅行だと言っていましたね。だからはとバスなんです。この意味、わかります?」    「どういうこと?」                                                    「バスが東京を抜けるのに30分はかかります。その間に東京の有名な場所をいくつか通ります。はとバスのガイドさんなら、その全てをきちんと説明することができるんです。」                               そこまで考えてくれたのか!やっぱりこいつはたいした男だ。仕事の枠を超えている気がする。しかし、本当のサプライズは最後の最後にやってきた。

 Aさんと組んだ最後の修学旅行。その時、彼は出世していて、普通の添乗はしない立場になっていた。僕が頼んでも答えは同じだった。噂ではほかの学校も同じように添乗を依頼したようだが、もちろん彼は、その全てを断っていた。まあ仕方のないことだ。そう思いながら当日集合場所に行くとAさんがいる! ・・・あ、そうか。上役が見送りに来るのはよくあることだ。それはそれでありがたい。僕は彼に近づき、声を掛けた。                   「見送り?大変だね。」                  すると彼は、にっこり笑ってこう言ったのだ。       「いえ、僕が行きます。何とか調整しちゃいました。」 「・・・えっ!それってまずいんじゃないの?だってほかの学校、みんな断ったんでしょう?」             「いえ、大丈夫です。多分。」               多分ってなんだ?こっちは嬉しいけど、本当に大丈夫なのか?修学旅行は地域の中学校の日程が何校か重なる。現地で、いや修学旅行専用列車でも他の学校とバッティングする。バレバレだ。全く心配させてからに。案の定、1日目から見つかって、となりの車両(他校)に呼ばれて「なんで他校にいるんだよー。」なんて言われているのが通路越しに聞こえてくる。ナンだかなあ。しかし、この旅行が僕たち二人にとって最後なのはわかっていた。僕は来年、他の学校へ異動することがほぼ決まっていたし、彼は東京にご栄転の噂があった。お互い、特別な気持ちで臨んでいたんだと思う。

 2日目、ホテルで本部待機していた僕のところへAさんがやってきた。                      「先生、お昼どうします?」              「え?まだ何も考えていないけど。」           「寿司とりましょう、寿司!僕おごりますよ。」       「え?いいよいいよ、自分のぶんは出すよ。」       「いえ、おごらせてください。」              彼はポケットマネーで代金を支払ったようだ。領収証をもらわなかったのを僕は見ていた。だが、旅行会社の職員が教師に昼飯をおごるなんて聞いたことがない。でもあの笑顔で言われちゃ断れないよなあ。

  そして3日目。東京駅からは例によってはとバス。今では一つの楽しみになっている。地方都市にある学校近辺をはとバスが6台連なって走るのを見て、地域住民が目を見張る。それを車窓から見ているのが何とも面白い。やがてバスが学校周辺の大通りに停車した。生徒が全員安全に降車したことを確認した直後、Aさんが振り返って僕を見た。あの笑顔だ。                          「先生!お疲れ様でした。無事終わりましたね。ありがとうございました。」                       そう言って彼は、右手を差し出してきた。思わず僕はその手を握った。握手?業者と職員が?これも聞いたことがない。普通じゃあり得ない。彼が続ける。              「いや、楽しかったです。先生と組むと仕事が楽しいです。本当にいろいろなことを教えていただきました。」        それはお互い様だ。あんまりびっくりしてしどろもどろに何を言ったか、今ではもう思い出せない。とにかくそんなわけで、僕には何から何まで驚きだらけの修学旅行になったのだった。  僕の異動が確定した頃、彼が再び学校を訪れた。彼の方も「ご栄転」が決まり、その挨拶に来たのだ。僕は彼を見つけると声を掛けた。                         「あのあと、大変だったろう?」             「はあ、支店長にこっぴどく叱られました。」       「大きな声じゃ言えないが、僕も異動が決まったよ。そっちも東京だって?」                      「はい、おかげさまで。いよいよ添乗はできそうにないです。」                                                                         そしてこう続けた。                   「先生と、もう一度京都に行きたかったです。本当にお世話になりました。」                       それは僕も同じだよ、Aさん。              「ほかの学校も回らなきゃならないんで、これで失礼します。先生もお元気で。」                    「ありがとう。Aさんもがんばってね。」          これが最後の会話だった。

  打合せのために彼の携帯電話の番号を聞いてあった。迷惑を考えてあれ以来かけたことはない。だが僕は今でもそのナンバーを保存している。もしかしたらもう繋がらないかもしれないが、そんなことはどうでもいい。なにはともあれ、僕にとっては大事な宝物なのだ。