カテゴリー
未分類

 夏といえば怪談 2023 「ヘタレの見たもの」 

 それは地域の清掃ボランティアがあった、とある日曜日の朝のこと。「今日は暑くなりそうだな」などと思いつつ、出かける準備をしていたのだが、ふと気づくと、うちの飼い猫である「ヘタレ」の様子がおかしい。微動だにせず、斜め上方の一点を見つめている。その視線の先には天井しかない。しばらく見ていると、急に動き出してソファーの後ろに入ってしまった。変だ。ヘタレは何かに驚いてもそこに行くことはほとんどない。しかもその位置から、先ほど凝視していた方向を警戒しているように見える。「おい、ヘタレ、どうした。誰か来てるのか?」これは猫どもがおかしな行動をとった時に家人が放つ常套句で、亡くなった親類の霊でも来てるのか、という意味の、いわばジョークだ。だがこんな天気の良い日曜日の朝に、わざわざ出てくる霊なんぞいないだろう。時間になったので、あまり気にもせず、僕は清掃ボランティアに向かった。

 1時間ほどの清掃作業の後、汗だくになって帰宅したのだが、やはりヘタレはソファーの後ろに退避したままだ。ヘタレは持病を持っているので、ちょっと心配になってきた。「おい、ヘタレ、大丈夫か?」ソファーの背もたれ越しに上から覗いた時、あることに気づいた。ヘタレの尻尾が総毛立って太くなっていたのだ。1時間以上もその状態でいたのだろうか。かわいそうな気もしたが、その場所から追い出してみた。するとヘタレは部屋の反対側にあるダイニングテーブルの下まで一目散に走って行き、そこでうずくまった。みるみるうちに尻尾がもとの太さに戻ったところを見ると、彼を驚かせた脅威はもう去ったらしい。だがいまだにどことなく落ち着かない様子で、結局いつものヘタレに戻ったのは、昼を過ぎてからだった。

 こういったペットの不可解な行動は、一般的によく報告されているものだ。5匹の猫がいる我が家も例外ではない。家人も慣れたもので、「また誰か来てる?」などと声をかけるのが常だ。だが、今回のヘタレの様子は今までとは明らかに違っていた。これまでヘタレが尻尾を太くしたといえば、仲間猫との小競り合いや、ガラス戸越しに野良猫と対峙した時ぐらいだ。だが今回は周りに猫はいなかった。別の何かを見て怖じ気づいたとしか思えない。それはまるで、ホラー映画の1シーンのようだった。

 あのときヘタレは、一体何を見たのだろうか。

カテゴリー
未分類

 ホラーには外連味の効いた演出が欲しい

 ホラー映画には「外連味(けれんみ)」が欠かせない。前にもちょっと書いたが、本当に幽霊というものが存在するとしたら、普通に考えて、相手が誰かを認識できるようにわかりやすく、生前の姿で現れるだろう。それは状況によっては少しも怖くない。映画はエンタティンメントである以上、そこには怖さの演出が必要になる。つまり「外連味」だ。ただし、ここで僕が言いたいのは、「エクソシスト」のリーガンや各種ゾンビのような「人体破壊」的な演出ではない。いわゆる「様式美」的な演出のことだ。良い例がある。ジョン・カーペンター監督の「ザ・フォッグ(1980)」だ。

 映画のラストシーン、教会の中で過去の幽霊たちと対峙する主人公たち。幽霊たちは光る霧を背景にシルエットとなって浮かび上がる。その目だけが真っ赤に光っている。これですよ、これ!これぞ様式美。だって、幽霊の目が赤く光るなんて、理屈に合わないもの。必然性も無いし。でもやっちゃうんだよ。これだからカーペンター大好き!なんだよなあ。

 そもそも「外連味」というのは歌舞伎などで言う見た目重視の演出のこと。これが上手くいくと、「怖い!」という感情よりも、「待ってました!」みたいな満足感が湧いてくる。「こういうのって、やっぱり歌舞伎なんだ」とか思う。このパターンは1983年の映画「ザ・キープ」でも使われていて、邪悪な存在の目と口が映像処理で赤く光っていた。ハレーション効果で赤をのせているらしく、シルエットでなくても光っている。こちらは1種の妖怪(悪魔?)だから、理屈も必然性もあったものではない。こういうものなんだ、で納得。ただし、映画の出来は散々だった。前半はすごく好調(実物のドイツ軍のハーフトラックとか出てきちゃうし)だったのに、いったい何があったのだろうか?同名の原作(ポール・ウィルソン著)はナチスドイツの親衛隊と国軍の拮抗とか、ユダヤ人の学者さんとかが絡んでとても面白かっただけに残念でならない。

 そう言えば、最近スティーブン・キングの「IT」が再映画化されて話題になったが、僕は前作(初映画化のもの。TV映画)のほうが好きだ。確かに新作は映像技術も素晴らしいし、キャスティングもなかなかいいのだが、いかんせんペニーワイズが怖すぎる。何しろ普段から怖い。そこへ行くと前作のペニーワイズは、普段は陽気で楽しいピエロそのものなので、そのクレイジーさ加減がより際立っている。特に図書館での悪ノリというか奇行ぶりは必見。

 「外連味」の話だった。さすがに赤く光る目は時代遅れなのか、最近では新しいパターンが採用されている。例えば白目のない真っ黒な眼球。それと、人間離れした歩き方、かな。真っ黒の眼球は、欧米では悪魔が乗り移ったときのイメージとして、昨今よく使われている。変わった例としては「フロム・ヘル」(※)で使われた、切り裂きジャックの真っ黒なキャッチライト(反射光)のない瞳があげられる。あれはあれでかなり邪悪な感じだった。奇異な歩き方は日本のオリジナルと言っていいだろう。ちなみに、ゾンビの歩き方は、あれは死体なので文字通り神経が行き届かない故のものと解釈している。死後硬直もあるだろうし。そういう見方をすれば、伽耶子(呪怨)の四つん這いは生前最後の、傷を負って這いずりまわる姿、と言えなくもない。そうなるとやっぱり貞子(リング)は別格か。いやいや、「回路」に出てきた女性の幽霊の歩く姿もなかなかのものだった(颯爽と歩く、が、途中でよろける。これが妙に怖い)。ただし、これらの例は根源的な違和感を感じさせるもので、すでに歌舞伎を超えたところにあると言えるかもしれない。

(※)「フロム・ヘル」2001年制作 ジョニー・デップ主演(ただしギャグは一切無し)。切り裂きジャックの正体についての新解釈を映画化。厳密にはホラーではないが、十分ホラーっぽい作品。でも根幹はメロドラマかなあ。 

〈追記〉 外連味とはまるで関係ない恐怖描写をひとつだけご紹介。イギリス映画「回転」のワンシーン。舞台となる豪邸の庭園にある東屋(あずまや)から、大きな池の向こうにたたずむ女性の幽霊を目撃するシーン。真っ昼間で、遠い。顔などは判別できない。彼女は黒衣をまとっている。視線をそらしてもそこから消えず、動きもなくたたずみ続ける。実際に幽霊を目撃するときはこんな感じなんだろうな、と思う。何しろ消えてくれないのが怖い。陽の光を浴びて存在し続ける確かな存在感が怖い。このシーンを初めて見たとき、「あれって、幽霊なんじゃ・・・」という困惑から始まって、「やっぱりあれ、幽霊だよ」という確信に至る心境の変化を、知らず知らずのうちに登場人物と共有してしまっていた。「○○、うしろうしろ!」どころの騒ぎではない。監督が上手いんだろうなあ。原作は「ねじの回転」。ヘンリー・ジェームス著。映画は1961年制作、モノクロ作品です。

 

カテゴリー
未分類

 ホラー映画とは?

 ホラー映画が好きだ。「そんなことあり得ない」と思いながら、「もしあったらどうしよう?」とも思う。その狭間の感覚というか、中途半端に不安定な気分にさせてくれる。現実逃避的な意味合いもそこにはあるのだろう。そういった意味ではSF映画も好きだ。ただし、最近のSF映画は特殊効果(CG等)を見せるためだけのものになってしまっているような気がする。これは×かな。

 アメリカでは最近マーヴェルレーベルのコミックスを映画化するのが流行っているが、あれは僕はダメだ。「何でもあり」すぎるからだ。その点、50年代のSFは良かった。クモが巨大化したって?そりゃ大変だ!でもなんで?それはね・・・と、多少無理矢理ではあっても、種明かしがある。これが楽しい。なかには「ウッソー!」みたいなこじつけもあるが、とりあえず説明はされている。ホラーではこうした科学的な説明はいらない。ただし、多少なりとも起こった出来事の因果関係というか、原理的なものは説明されることが多い。時には「だってそうなってんだから仕方ないだろ」とか言われて「そっかー、怖いわー」で終わってしまうようなものもあって、「なんで祟るんだよー」とか「なんでこの人が死んじゃうんだよー」とか言っても、悪魔とかその一党なんて、そもそも何考えてるかわかったモンじゃないから、中近東の悪魔がいきなりニューヨークの少女に憑依したりする。その人知を越えた不条理さが怖いのだ。

 最近のホラー映画を見ていると、いやホラー映画に限らず、「こういうことがありました。後は自分で考えてネ」みたいな丸投げ的なものがあって、あれはちょっと感心しない。80年代の、血糊の量を競うような風潮もあまり好きではなかった。その後、しばらくして現れたのが「リング」に代表されるジャパネスクホラーと呼ばれる一連の作品群であった。「リング」のなかの「何があったかわからないけど、ひどい死に顔なのでなんかものすごいものに遭遇したに違いない」的なシチュエーションはなかなかいい。見る側が勝手に一番怖いことを想像してしまう。これは説明不足ではなく、想像をかき立てるための技法だから許せる。そもそもアメリカンホラーはどちらかというと「痛い」怖さ。しかも恐怖の対象を視認できることが多い。日本には「気配」という素晴らしい言葉があって、これは最終的に恐怖の対象を視認できるとしても、そこへ行くまでにじわじわと見る者を締め付けてくる。こういう作品が好きだ。最近の洋画では、「ジェーン・ドゥの解剖」がこれに近かった。古くは「ブレアウイッチプロジェクト」あたりか。「ジェーン・ドゥの解剖」の、最後のセリフなんていかにも意味深で、ちょっと投げた感じもするが、あれは許す。

 邦画では「回路」がわりと好きだ。ストーリー的には酷評もあるようだが、あの見せ方は特筆ものだ。だが、なぜかアメリカがリメイクすると同じシーンでもあまり怖くないから面白い。これは多分、下着のカタログに外国人女性を使うとあんまり・・・いやいや、話を続けよう。

  つまり、何が怖いかというと,理解できなかったり、理不尽であったりすることなのだろう。「なんでオレが!」と思うその恐怖。これは怖いぞー。例えば悪魔が憑いたのなら「ああ、悪魔憑きね」でおさま・・・らないかもしれないけど、まあ、理屈はわかる。すでに概念があるからだ。ところが、「リング」のような話になると、「ビデオ見ちゃいました」が死ぬ理由になる。身に覚えがなくても、ぜんぜん悪いことしていなくても死ぬ。これはいやだなあ。しかも黙って死なせてやればいいのに、「何日後に死にます」なんて電話がかかってくる。嫌味なことこの上ない。そういえば原作を読んだときに「本を読むのは大丈夫なんだよな?」なんて気持ちになったことを思い出す。続編ではこれもアウトな設定だったような・・・。いずれにせよ、そういう日常ではあり得ない不条理の中に身を置くことで、現実からつかの間逃避できるのが、ホラー映画の魅力のひとつだろう。あまり健全な方法とは言えないが。

 SFホラーとか、SFアクションといったクロスオーヴァーものも最近多い。「エイリアン」シリーズや「バトルシップ」なんかがそうだ。「エイリアン」シリーズなんていまだに続いているし、あれこそクトゥルフ神話だ!なんていう人まで出てくる始末だ。H.R.ギーガーの画集「ネクロノミコン」がデザインのもとになったからって、少々考えすぎだろう。「バトルシップ」については、「そんなことあるかーい!」の連続で、あれくらいやってくれると逆に快感だ。戦艦ニュージャージがあんなに簡単に始動できる状態にあるとは思えないし、投錨して進路を急カーブさせるなんて、何十年も前に宇宙戦艦ヤマトがすでにやっている。そして多分どちらも無理だろう。しかし、無理を通さないと地球が危ない。その無鉄砲さ加減がかえって「やるなあ、ニュージャージ!」とか思わせてくれるのだ。あのレベルの侵略がもし現実に起こったら、一週間で地球は占領されてしまうに違いない。

 ところで、「イベント・ホライズン」というホラーSFをご存じだろうか。天文学が好きな人なら、イベント・ホライズンという言葉がブラックホールに関する専門用語であることはすぐわかると思う。日本語では「事象の地平線」などと訳される。ブラックホールのこちら側とあちら側を分ける境界のことを指すらしい。あちら側では何が起こっているのか観測できないのでこう呼ばれている。

 深宇宙探査船「イベント・ホライズン」が、特殊な推進力を使ってブラックホールの向こう側への旅に出る。そのまま消息を絶ち、数年ぶりに帰ってきた「イベント・ホライズン」には生存者は一人もいなかった。クルーは全て残忍な方法で殺害されており、クルーのかわりにそこにいたものは?・・・謎解きの手がかりは、航宙日誌に記録されたラテン語(!)の音声のみ。では、イベントホライズンがたどり着いた場所とはなんだったのか?                           アレだよアレ。                    じゃ、宇宙船にとりついていた存在とは?          カレだよカレ。                      そういうお話。何しろアイディアがいい。ネタばらしになるが、この世界ではない別の世界へ行く能力を持った宇宙船が行った先は地獄だった、とか、よく思いついたなと思う。各キャラクターの絡みやドラマ部はイマイチだが、この荒唐無稽さはアリだと思う。

 過去にスタンリー・キューブリックとA.C.クラークのコンビが同じようなデザインの宇宙船で神(科学的な概念としての)のもとへ行ってみせたが、それから何十年もたってから、今度は悪魔のもとへ行く映画が作られるなんて、思ってもみなかったに違いない。まあ、作品としてはこじんまりとしているが、特殊効果やセットについてはかなり凝っていたと思う。

 付け足しだが、「メッセージ」もなかなか良かった。異星の巨大宇宙船が現れたときの人々の生活の様子がリアル。授業を中断して学生を帰宅させる大学のシーンなんて、「ウンウン、こうなるだろうなー」と思わせてくれる。その後の展開も、難解さはあるものの(時系列が妙に混乱している)、最後にきて「ああ、そうだったの!」と、しっかり回収してくれる。ちなみに原作は短編集で、他の作品もひねりがあってなかなかのもの。 よくこんな話を映画にする気になったな、と思う。短編集は全体としては例の、「そんなことあるかーい!」の連発で、作者は「ここではこれが普通なんです」みたいな顔をして一歩も譲らない。とにかくこの作者は頭がいい。その思考実験に無理矢理つきあわされている感じ。好き嫌いの分かれる作風だが、僕は嫌いではない。ちょくちょく読み返す気にはならないが、読後感を一言で言うなら、「すげー。よくやるよ。」といった感じか。興味があったら読んでみるといい。だが、ダメな人は一話目の終わりまですらたどり着けないだろう。

 というわけで、ホラーやSFは僕にとっては現実逃避のためのツールである、ということを言いたかったかったのだが、なんだか脱線ばかりしてしまった。この埋め合わせはまた今度。