ホラー映画とは?
ホラー映画が好きだ。「そんなことあり得ない」と思いながら、「もしあったらどうしよう?」とも思う。その狭間の感覚というか、中途半端に不安定な気分にさせてくれる。現実逃避的な意味合いもそこにはあるのだろう。そういった意味ではSF映画も好きだ。ただし、最近のSF映画は特殊効果(CG等)を見せるためだけのものになってしまっているような気がする。これは×かな。
アメリカでは最近マーヴェルレーベルのコミックスを映画化するのが流行っているが、あれは僕はダメだ。「何でもあり」すぎるからだ。その点、50年代のSFは良かった。クモが巨大化したって?そりゃ大変だ!でもなんで?それはね・・・と、多少無理矢理ではあっても、種明かしがある。これが楽しい。なかには「ウッソー!」みたいなこじつけもあるが、とりあえず説明はされている。ホラーではこうした科学的な説明はいらない。ただし、多少なりとも起こった出来事の因果関係というか、原理的なものは説明されることが多い。時には「だってそうなってんだから仕方ないだろ」とか言われて「そっかー、怖いわー」で終わってしまうようなものもあって、「なんで祟るんだよー」とか「なんでこの人が死んじゃうんだよー」とか言っても、悪魔とかその一党なんて、そもそも何考えてるかわかったモンじゃないから、中近東の悪魔がいきなりニューヨークの少女に憑依したりする。その人知を越えた不条理さが怖いのだ。
最近のホラー映画を見ていると、いやホラー映画に限らず、「こういうことがありました。後は自分で考えてネ」みたいな丸投げ的なものがあって、あれはちょっと感心しない。80年代の、血糊の量を競うような風潮もあまり好きではなかった。その後、しばらくして現れたのが「リング」に代表されるジャパネスクホラーと呼ばれる一連の作品群であった。「リング」のなかの「何があったかわからないけど、ひどい死に顔なのでなんかものすごいものに遭遇したに違いない」的なシチュエーションはなかなかいい。見る側が勝手に一番怖いことを想像してしまう。これは説明不足ではなく、想像をかき立てるための技法だから許せる。そもそもアメリカンホラーはどちらかというと「痛い」怖さ。しかも恐怖の対象を視認できることが多い。日本には「気配」という素晴らしい言葉があって、これは最終的に恐怖の対象を視認できるとしても、そこへ行くまでにじわじわと見る者を締め付けてくる。こういう作品が好きだ。最近の洋画では、「ジェーン・ドゥの解剖」がこれに近かった。古くは「ブレアウイッチプロジェクト」あたりか。「ジェーン・ドゥの解剖」の、最後のセリフなんていかにも意味深で、ちょっと投げた感じもするが、あれは許す。
邦画では「回路」がわりと好きだ。ストーリー的には酷評もあるようだが、あの見せ方は特筆ものだ。だが、なぜかアメリカがリメイクすると同じシーンでもあまり怖くないから面白い。これは多分、下着のカタログに外国人女性を使うとあんまり・・・いやいや、話を続けよう。
つまり、何が怖いかというと,理解できなかったり、理不尽であったりすることなのだろう。「なんでオレが!」と思うその恐怖。これは怖いぞー。例えば悪魔が憑いたのなら「ああ、悪魔憑きね」でおさま・・・らないかもしれないけど、まあ、理屈はわかる。すでに概念があるからだ。ところが、「リング」のような話になると、「ビデオ見ちゃいました」が死ぬ理由になる。身に覚えがなくても、ぜんぜん悪いことしていなくても死ぬ。これはいやだなあ。しかも黙って死なせてやればいいのに、「何日後に死にます」なんて電話がかかってくる。嫌味なことこの上ない。そういえば原作を読んだときに「本を読むのは大丈夫なんだよな?」なんて気持ちになったことを思い出す。続編ではこれもアウトな設定だったような・・・。いずれにせよ、そういう日常ではあり得ない不条理の中に身を置くことで、現実からつかの間逃避できるのが、ホラー映画の魅力のひとつだろう。あまり健全な方法とは言えないが。
SFホラーとか、SFアクションといったクロスオーヴァーものも最近多い。「エイリアン」シリーズや「バトルシップ」なんかがそうだ。「エイリアン」シリーズなんていまだに続いているし、あれこそクトゥルフ神話だ!なんていう人まで出てくる始末だ。H.R.ギーガーの画集「ネクロノミコン」がデザインのもとになったからって、少々考えすぎだろう。「バトルシップ」については、「そんなことあるかーい!」の連続で、あれくらいやってくれると逆に快感だ。戦艦ニュージャージがあんなに簡単に始動できる状態にあるとは思えないし、投錨して進路を急カーブさせるなんて、何十年も前に宇宙戦艦ヤマトがすでにやっている。そして多分どちらも無理だろう。しかし、無理を通さないと地球が危ない。その無鉄砲さ加減がかえって「やるなあ、ニュージャージ!」とか思わせてくれるのだ。あのレベルの侵略がもし現実に起こったら、一週間で地球は占領されてしまうに違いない。
ところで、「イベント・ホライズン」というホラーSFをご存じだろうか。天文学が好きな人なら、イベント・ホライズンという言葉がブラックホールに関する専門用語であることはすぐわかると思う。日本語では「事象の地平線」などと訳される。ブラックホールのこちら側とあちら側を分ける境界のことを指すらしい。あちら側では何が起こっているのか観測できないのでこう呼ばれている。
深宇宙探査船「イベント・ホライズン」が、特殊な推進力を使ってブラックホールの向こう側への旅に出る。そのまま消息を絶ち、数年ぶりに帰ってきた「イベント・ホライズン」には生存者は一人もいなかった。クルーは全て残忍な方法で殺害されており、クルーのかわりにそこにいたものは?・・・謎解きの手がかりは、航宙日誌に記録されたラテン語(!)の音声のみ。では、イベントホライズンがたどり着いた場所とはなんだったのか? アレだよアレ。 じゃ、宇宙船にとりついていた存在とは? カレだよカレ。 そういうお話。何しろアイディアがいい。ネタばらしになるが、この世界ではない別の世界へ行く能力を持った宇宙船が行った先は地獄だった、とか、よく思いついたなと思う。各キャラクターの絡みやドラマ部はイマイチだが、この荒唐無稽さはアリだと思う。
過去にスタンリー・キューブリックとA.C.クラークのコンビが同じようなデザインの宇宙船で神(科学的な概念としての)のもとへ行ってみせたが、それから何十年もたってから、今度は悪魔のもとへ行く映画が作られるなんて、思ってもみなかったに違いない。まあ、作品としてはこじんまりとしているが、特殊効果やセットについてはかなり凝っていたと思う。
付け足しだが、「メッセージ」もなかなか良かった。異星の巨大宇宙船が現れたときの人々の生活の様子がリアル。授業を中断して学生を帰宅させる大学のシーンなんて、「ウンウン、こうなるだろうなー」と思わせてくれる。その後の展開も、難解さはあるものの(時系列が妙に混乱している)、最後にきて「ああ、そうだったの!」と、しっかり回収してくれる。ちなみに原作は短編集で、他の作品もひねりがあってなかなかのもの。 よくこんな話を映画にする気になったな、と思う。短編集は全体としては例の、「そんなことあるかーい!」の連発で、作者は「ここではこれが普通なんです」みたいな顔をして一歩も譲らない。とにかくこの作者は頭がいい。その思考実験に無理矢理つきあわされている感じ。好き嫌いの分かれる作風だが、僕は嫌いではない。ちょくちょく読み返す気にはならないが、読後感を一言で言うなら、「すげー。よくやるよ。」といった感じか。興味があったら読んでみるといい。だが、ダメな人は一話目の終わりまですらたどり着けないだろう。
というわけで、ホラーやSFは僕にとっては現実逃避のためのツールである、ということを言いたかったかったのだが、なんだか脱線ばかりしてしまった。この埋め合わせはまた今度。