「赤とんぼ」
「赤とんぼ」。言うまでもなく、日本人なら誰でも一度は聞いたことがあるであろう、有名な童謡。この歌の歌詞は作詞者である三木露風の幼い頃の記憶によるものだそうだ。
露風は5歳の時に両親が離婚し、母親と生き別れている。ある日幼稚園から帰ると、すでに母の姿は消えていたんだって。その後は祖父の家に引き取られ、奉公に来ていた「姐や」が面倒を見てくれた。だがその姐やも1年後、歌にもあるように十五で嫁に行ってしまう。幼くして大事な人との別れを2度も経験したわけだ。寂しかったろうなあ。
背負われて一緒に赤とんぼを見たのは姐やということらしいが、桑の実を摘んだのは、「まぼろし」というぐらいだから母親との記憶かもしれない。ネットには三木露風や曲自体を分析しているブログがたくさんあるから、ここでは詳しくは触れない。今日取り上げたいのは歌詞の「山の畑の桑の実を 小籠につんだはまぼろしか」という部分。
ある程度の年齢になれば、誰でも「あれは本当にあったことだったのかしら、それとも心が作り出した虚構なのかな」といった曖昧な記憶をもっていることと思う。そしてそんな記憶ほど、いつまでも印象が薄れず、ことあるごとに思い出す。違いますか?かく言う僕も、そんな記憶がいくつかある。なかでも不可解なのが、幼稚園かそれより前、高さ2メートル以上はあろうかという、石碑というか位牌を見た記憶。何かの店舗の一番奥に鎮座していて、天窓から差し込む光がそれを明るく照らし出していた。大きさから「石碑というか位牌」と書いたが、記憶では明らかに位牌のイメージ。というのも、黒の漆塗りで金の文字と装飾が施されているように見えたからだ。でも、仮にその店舗が仏具店だったとしても、徳川家の菩提寺じゃあるまいし、高さ2メートルの位牌はあり得ないだろう。もし宣伝用の張りぼてなら店の外、もっと目立つところに置くはずだ。そして何よりも、クリスチャンであった母が僕を連れて仏具店を訪れる可能性は低い(と言っても、母は宗教に対して強いこだわりを持っていたわけではないので、ゼロではない)。一体どんな思い違いをしているのだろう。
もう一つは薄曇りの空の下、どこまでも続くトウモロコシ畑の脇の道を歩いている記憶。これについては「あそこかな?」と思える場所があるのだが、前後の記憶は全くなくて、ただただトウモロコシ畑だけの記憶。誰かに「ここは天国かい?」と聞いたら、「いいや、アイオワだよ」なんて言われそう・・・(※)。たまに、夢の内容がしっかり記憶として定着することがあるじゃないですか。その類いなのかなあ。
三木露風が母親と別れたのは5歳の時。一緒に桑の実を摘んだのが母親だとすれば、それ以前のことのはずだから、記憶が曖昧なのも無理はない。でも、「あれはまぼろしだったのか」という言い方からすると、「曖昧な記憶」というより「はかない記憶」と表現した方が、露風の心情としては正しいかもしれない。今はもう確かめようが無い、でも本当のことであってほしい母の記憶。これがもし夢の記憶だったらちょっと悲しすぎる。
後年、露風は生き別れになっていた母親の通夜に現れると、遺族に「母の亡骸のそばで眠りたい」と頼み、同じ部屋で就寝した。67年ぶりのことだったそうだ。
※ 映画「フィールドオブドリームス」の亡くなった父親と主人公の会話。広大なトウモロコシ畑の片隅で交わされる。