カリスマの危険性
カリスマ。最近あまり聞かなくなった言葉。一般大衆を魅了するような資質を持った人のことを言うそうだ。
こういった人たちは今でも存在していて、特に価値観が確立していない世代から絶大な支持を得ている。だがどんなにカリスマ性を発揮している人でも、人間である事に変わりは無い。だから、長いこともてはやされているうちにボロが出てくることがある。特にたちが悪いのはうぬぼれというやつだ。
うぬぼれ(自惚れ)とは、文字通り自分に惚れることだ。惚れた相手の欠点が見えなくなるというのはよくある話だ。自信を持つのはいい。自分を信じるのは大切なことだ。僕の知っている「自分を信じている」人たちは間違いを犯すと素直にそれを認めることができる。そんな自分も含めて客観的に自己評価をしているからだ。しかも価値観を自分の外に置いている。常識というやつだ。良識と言ってもいい。それが「自信」の裏付けにもなっている。だがひとたびうぬぼれの状態に陥ると、価値観は自分の中でだけ成長するようになる。つまり独断だ。この手の人たちは大抵常識に反発しようとするから、始めは格好良く見える。だが長続きはしない。ほとんどの人はついて行けなくなるからだ。ネットの記事などでよく目にする○○氏やΔΔ氏などはこのパターンだろう。始めは的を得たコメントを言っていたのかも知れないが、今では「何を言っても支持される」という傲慢さがにじみ出ている気がする。困ったことにこうした人たちには、常に一定の支持者がいてもてはやすので、本人たちも何がおかしいのかわからなくなってしまっているのだろう。支持者も支持者で、違和感を感じた人は早々に離れていくので、ほとんどの場合、少しずつ入れ替わっている。
支持する側には選択の自由があるからまだ良い。だがカリスマの側はそう簡単に主張を覆せない。支持者に対する見栄があるからだ。さらに自分が正しいとうぬぼれていれば、その必要性すら感じないだろう。こうした人たちが対立すると面白いよ。まるで子どものケンカだ。声ばかり大きくて、中身は有るんだか無いんだか。大人は見向きもしないだろう。
良識のあるカリスマは、自分の主張が単なる「一個人の見解」に過ぎないことをよく知っているから、常識を踏まえた上で意見を言う。そもそも「常識」とは、本来そう簡単には揺るがないものであって、易々と論破されるようなら、それは始めから「常識」などではなく、何か別のものだったということだ。彼らはそのへんをよくわきまえている。だから主張に無理がない。目立ちはしないが、じんわりと浸透する。そもそも本当のカリスマはカリスマに見えないというのが僕の持論だ。先のお二人には、是非ともナサニエル・ホーソーンの短編「人面の大岩」をご一読いただきたい。