カテゴリー
未分類

 ヘミングウェイ スタインベック そしてジョーンズ。

 少し前にキンチョーのラジオCMについて書いたが、その後、なんとなく思い出してサントリーの缶コーヒー、BOSSの歴代CMをYoutubeで見た。やっぱり良いなあ、このシリーズは。ただ笑えるだけじゃなくて、そこにはペーソスの要素もある。選曲も素晴らしく、油断していると涙が出てくる。サントリーのセンスはただものじゃない。

 サントリーと言えば、思い出すのが1980年頃のウィスキーのCMだ。特に記憶に残っているのが、ローヤルのヘミングウェイ編とスタインベック編。せっかくなので、ネットサーフィンよろしく続けて検索。久しぶりに聞く小林亜星氏の音楽が絶妙で、またしても涙腺をやられてしまう。たった60秒だよ?なんで?

 ユーザーのコメントを読むと、おそらく僕と同じか、それより上の人たちが、小さい頃に感じた大人になることへの憧れについて書いていた。「いつかウィスキーの似合う大人になろうと思った」だの、「頑張った時期もあったけど、今では無名の焼酎です、反省」なんていう味のあるコメントもある。なかでも印象的なのは、そこかしこに散見する「良い時代だった」というコメントだ。

 このCMのメインとなるキャプションは、「男はグラスの中に自分だけの小説を書く事ができる」というもの。取り上げられている二人の作家が男だから、モノローグは勿論男目線だし、モチーフになっている小説の時代背景だって「そういう」時代だから、CM自体が男臭くなるのは当然だ。でも、現代にこのCMを流したら、「女には書けないというのか!」とか、「男女平等の価値観に基づいていない!」だのという人が、それも一人や二人でなく現れるだろう。やだねえ。細かいことは言いっこ無しだよ。女性向けのお酒のCMは別にあるんだしさ。え?そもそもそれが差別だって?そうなんですか。

 正直言って、僕は男らしさとか女らしさは大切だと思っている。女性には重すぎるであろう荷物を持ってあげたり、仕事でミスって落ち込んでいる男性の肩にそっと手を置いたりすること自体を「やってはいけない」という人はいないだろう。もっともするかしないかは当事者の決めることだけど。

 僕は「上級職は男に任せろ」などと言っているわけでは無い。ただ、生物学的に言っても、文明が発達する以前から男性と女性にはいろいろな「差」があるじゃんか、それを社会通念としての「平等」という概念で語ると思わぬ間違いをしかねないよ、と言っているのだ。その点、「ヘミングウェイ編」はよくできている。足を骨折して動けない初老の男性が、ガーデンチェアでグラスを傾けながらヘミングウェイの作品世界に浸り、いつしか眠りに落ちる。それを見た妻が微笑みながら、ブランケットを持ってきてそっと掛けてやる。この二人の関係はこれでいい。誰かがそれをとやかく言う必要なんて無い。もし奥さんがその関係に不満を感じているのなら、たたき起こして「さっさとうちに入りなさい!」と言えばいい。それだけのことだ。それを他人がいろいろと余計なことを言うもんだから、話が複雑になる。おそらく言わずにいられない連中は「本当にあなたはそれで良いの?」なんて言い出すんだろう。だからいいんだって、任せておけば。自分と同じ価値観を持ってもらおうなんて思わなくていいんだよ。みんなそれなりに考えを持って生きているんだから。

 現代は複雑になりすぎた。あるコメントは、「もうこんなCMは作れないだろう。面倒な時代になったものだ」と書いていた。同感だ。これらのCMは昭和の時代に作られた。以前昭和という時代について書いたが、昭和の美徳の一つとして、「細かいことを気にしないおおらかさ」があると思う。ネットという、個人が簡単に意見を述べることのできる環境も無かった。現代では、言いやすくなった分、軽率な意見や間違った意見も多く世間にさらされるようになり、新たな問題を生み出している。 

 現代にも細かいことを気にしない人はまだまだたくさんいる。気にしないからやたらと発信するようなことはしない。目立たないから少数派のように見えるだけだ。「言ったもん勝ち」と言うが、そんなもん、勝ったと思わせておけばいいだけのことだ。

カテゴリー
未分類

 スタインベックの「朝めし」

 高校の時の教科書にアメリカのノーベル賞作家、スタインベックの「朝めし」という短編小説が使われていた。「怒りの葡萄」で、資本主義経済に翻弄されるアメリカの小作農一家の苦難や力強く生きる姿を描いた作家だ。その内容から「コミー(コミュニスト=共産主義者)」と疑われたこともあったらしい。「怒りの葡萄」は映画化されているので見たことのある人も多いだろう。当時は経営者ばかりが金持ちになり、小作農などは虫けら同然に扱われることも多かったようだ。

   この「朝めし」という短編でも、そういった小作農というか、季節労働者が描かれている。舞台は多分、1930~40年代のアメリカ。こうした季節労働者は自分の土地を待たず、作物の収穫期に合わせてあちこちを移動しながら稼いでいた。ここに登場する一家もカリフォルニアの荒野にテントを張って寝泊まりしている。物語は主人公が過去を回想する形で綴られていて、「こうした小さな出来事が、思い出すたび私を幸せな、暖かい気持ちにしてくれるのだ」という文章で始まっている。  

 旅をしていた(らしい)主人公はある寒い日の夜明け前、朝食の準備をする竈(かまど)の赤い炎に惹かれて、暖をとるためにこのテントを訪れる。多分、作者自身の体験だろう。  

 若い娘が赤子に授乳しながら、せっせと朝めしの準備をしている。次々と起きてきたテントの住人たちは、主人公に朝めしを一緒に食べていかないかと勧める。焼きたてのパン、いれたてのコーヒー、そしてフライパンに溜まった油の中のベーコン。テントの主はここ何週間かの自分たちの働きぶりを自慢げに話す。「ここ12日間俺たちはうまいものを腹一杯食ってるんだ。」そして作業着(時代からしてジーンズだろう。)を新調したのだという。そこには、貧しいながらも、仕事をして金を稼いでいる人間のプライドが強く感じられる。

 食事が終わり、日が昇る頃、登場人物たちはそれぞれの旅を続けるために出発する。その時の登場人物たちの会話が印象的だ。

「朝食をありがとう。」                  「いや、こちらこそ。よく訪ねてくだすった。」       

この家族は、主人公より明らかに社会的地位の低い人たちだ。おそらく正しい言葉遣いもままならないはずだ。しかし惜しみなく食事を提供し、主人公を心から歓待している。  

 最後に作者はこう結んでいる。 「こうしたことが私を幸せな気分にしてくれる理由はわかっている。しかしそこには素晴らしい美の要素があった。」  

 ほんの5ページ足らずの話である。内容も、登場人物が質素な「朝めし」を食べるだけ。にもかかわらず、こうして何十年も読者の心の中に残り続ける作品とは、いったい何なのだろう。試しにネットで検索してみると、同じような感想がいくつかヒットした。高校の教科書で知ったという人も何人か見つかった。僕と同じような体験をした人がいることを知ると、なんだか嬉しい気がする。同世代の人が多く、その文章からは、決して激しくはないが、おき火のようなじわりと暖かい情熱を感じた。解釈を試みる人も多いが、僕は解釈よりも感じ取ったことを大事にしたい。別にどちらが正しいかという論争ではない。つまり、「作者が何を伝えようとしているか」ということより、僕自身が「この話から何を受け取ったか」が,僕にとっては重要なのだ。 

 僕がこの作品を読み終えて最初にやったことは、パンとベーコンを買いに行くことだった。何しろ作中の「朝めし」は、何かとてつもない高級料理のように思えるほどうまそうだったから。次に僕は、パンをあえて直火で焼き、ベーコンを作中にあるように、ベーコン自身から出た油に浸るまでカリカリに焼いて、その油にパンを浸しながら食べてみた。うまかった!ただ、作中に出てくるパンは竈で焼きたてのパンである。しかもホットビスケットのような堅めのパンらしい。おそらくその状況も含め、いろいろな意味でもっとうまかったに違いない。

 僕の持っている文庫本のページは陽に焼けて茶色になり、定価を見ると古い時代なのがわかる。しかし、それほどの時間がたった今でも、「朝めし」は僕の愛する短編の一つなのである。

スタインベック短編集(新潮文庫) 当時220円。