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 夏と言えば… 実録?田中河内介

 今回はその筋では有名な田中河内介(たなかかわちのすけ)にまつわる話。

 田中河内介とは幕末の勤王家の一人で、薩摩藩の内紛でもある池田谷事件の折に過激派の一味として拘束され、己の目的のために藩士を欺くなどの所業が暴露されたこともあって、鹿児島に移送される船上で斬殺された。事の詳細は薩摩藩の暗部として秘匿されたため、田中河内介の最後については時代を超えて多くの逸話が生まれた。次に紹介する怪談もその一つ。

 時代が大正に変わって間もないある夜、物好きな面々が集まり、怪談を語る会が開かれた。するとある男がふらりと現れ、「田中河内介の最後について語りましょう」と言う。聞けばこの話は他言を固く禁じられ、「今では詳細を知っているのは私だけになってしまったので、語り継いでおきたい」とのこと。

 河内介の最後は無残かつ理不尽なものだったというが、大正の世になっても聞こえてくるのは憶測めいた話ばかり。ぜひとも真相を聞いてみたいとかたずをのんで待ったが、「とうにご一新(明治維新)も過ぎましたので…」つまり、もう時効のようなものだから、語ってもいいでしょう、といった類の前置きが堂々巡りするばかりで、一向に本題に入らない。あきれた会員たちが一人、二人とタバコを吸いに帳場に降り、「一体あの男は何なんだ」などと話していると、2回の会場となっている部屋から突然「医者を呼べ!」と叫ぶ声が聞こえた。急いで部屋にあがってみると、例の男が突っ伏してこと切れていた。こうして河内介の最後を知るものは誰もいなくなってしまった。

 この怪談を知ったのはだいぶ昔のことで、池田弥三郎(※1)の著書「日本の怪談」に紹介されているのを読んだのが最初だった。よくできた怪談話だと思っていたのだが、最近購入したある書物(※2)によると、この話はまごうこと無き事実らしい。曰く、この怪談会があったのは大正3年の7月12日の夜で、場所は京橋にあった画廊「画博堂」。ここで開かれた幽霊画展に合わせて催されたものだった。参加していたのは文豪泉鏡花に谷崎潤一郎、画家黒田清輝、歌舞伎役者市川猿之助など、そうそうたる顔ぶれだ。亡くなった語り手は「萬(よろず)朝報」という新聞社の営業部員、石河光治という人で、実際には現場で意識を失い、2週間後(26日)に死亡したという。ネットで調べてみると、2007~2008年にはすでにこれらの事柄を検証した書籍やブログの記事が確認できるので、おおむね間違いなさそうだ(※3)。

 石河光治は薩摩の旧家の出身で、それゆえ河内介斬殺の内情について伝え聞いていたようだが、薩摩藩内の内紛や謀略が絡む話なので、明治政府樹立後も政治的なタブーになっていたらしい。倒れる直前はろれつが回らなかったというから、死因は脳梗塞あるいは脳溢血だったのではないか、とこの書物の著者は推測している。

 実は前出の池田弥三郎の父である池田金太郎が件(くだん)の怪談会に参加しており、昭和になって息子の弥三郎が「父から聞いた話」としてこの騒動を紹介した時には、すでに政治的タブーが祟りというニュアンスに置き換えられていて、「話せばよくないことが起こる」という、より怪談めいた話になっていたらしい。ちなみに池田弥三郎の著作では語りの前口上は「この文明開化の世の中に祟りなどは無いだろうから…」というもので、こうした変更はおそらく聞く側の心理的バイアスによるものだろう。明治期にささやかれた数多くの祟り話を考えれば無理もない話だ。ただ、石河光治が亡くなったタイミングはあまりにも出来過ぎで、こうした一見ありそうもない「偶然」という要素が加わると、怪談は一気に説得力を持ち、聞く者は「あるいはもしかして…」と思い始める。逆を言えば、もし仮に石河光治の死が1年後だったら、この怪談は成立しなかっただろう。

※1 池田弥三郎 国文学者・民俗学者。「日本の幽霊」は1959年の著書。

※2 「教養としての最恐怪談」 吉田悠軌 著

※3 実際には怪談会の様子はもとになる証言や記述が多様なため、細部は様々な描写が見られる(「画博堂の怪談会」等で検索)。ここでは主に「日本の幽霊」「教養としての最恐怪談」に倣って記述していることをおことわりしておく。