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 アニメとヘミングウェイ

 久しぶりに「バーテンダー」というアニメのディスクを引っ張り出してきて鑑賞した。同名のマンガを2006年にテレビアニメ化したもので、さすがに作画などには時代の古さを見て取れるものの、演出の面においてはかなりこだわりを感じさせるヒューマンドラマだった。当時このアニメを一緒に見てカクテルの美しさに感動した幼い娘たちが、その年のクリスマスにカクテルを作るための道具をサンタさんにお願いしたことは、酒好きの父親にとってこの上ない幸運だった。 

 中でも好きなエピソードが、第5話「バーの忘れ物」。パワハラ上司に地方支局に左遷されようとしている小心者の若い社員に、主人公であるバーテンダー佐々倉がヘミングウェイの小説「老人と海」の話をする。初出が1952年のこの中編は、小舟で一人海に出た老漁師が3日にわたる死闘の末、巨大なカジキを仕留めるも、血の匂いを嗅ぎつけて集まってきたサメに襲われ、奮戦むなしく獲物をほとんど食いちぎられてしまうというストーリー。佐々倉はこの小説の中で老人が呟く有名な「・・・人間は負けるようには作られちゃいない。叩き潰されることはあっても、負けやしないんだ。」という言葉を引用して若い社員を励ます。彼は辞令を受けることを決意し、佐々倉との再会を約束して新しい任地へと旅立っていく。

 ヘミングウェイ(アーネスト・ヘミングウェイ 1899~1961)はやたらと男気のある人物で、1930年代に起こったスペイン内乱では義勇兵としてファシスト政権に立ち向かったこともあるぐらいだ。「老人と海」においてもヘミングウェイは困難な状況に屈せず立ち向かうという人間としての尊厳(そんなものは今や化石でしか見たことがないという気もするが)を深く考察し、描いている。以前僕は、中島みゆきの「ファイト!」という曲について触れた時に、「人は勝つためというより、負けないために戦い続けることがある」と書いたことがあったけれど、まさにそんな感じだ。

 実際、ヘミングウェイにも長いスランプに悩んだ時期があった。その末に書き上げたのが、この「老人と海」だった。彼はこの作品がきっかけで1954年にノーベル文学賞を受賞したが、後の航空機事故に起因する精神的な病のために、1961年、自ら命を絶ったという。彼を知るものにとっては、なんとも残念な終わり方だったと言うほかは無い。

 バーテンダー佐々倉はエピソードの中で、若い社員にフローズン・ダイキリというカクテルを振る舞っている。これはヘミングウェイが好んだカクテルの一つで、糖尿病を患っていた彼はレシピにアレンジを加え、砂糖を抜いてベースのラムを2倍の量にしていた。これはパパ・ダイキリもしくはパパ・ドブレ(パパのダブル)と呼ばれていて、彼が晩年を過ごしたキューバでは今もバーのメニューに載っているそうだ。ちなみに彼は当時、地元住民から親しみを込めてパパ・ヘミングウェイと呼ばれていた。

追記 TVアニメ「バーテンダー」は現在新作を制作中とのこと。2024年春に放送の予定らしい。前作と同じような雰囲気で作ってくれるとありがたいのだが。

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 趣味と実益

 よく「趣味と実益を兼ねる仕事」なんて言う。だが僕に言わせればそんなものは存在しません。まあ、例外はあるだろうけど。

 最近の子供たちに将来何になりたいかを聞くと、その答えは大きく二つの傾向に分かれるようだ。一つは「会社員」。昔の「公務員」と同じで、毎月決まった額の給料がもらえるから、というのがその理由だ。もう一つは「Youtuber」。これは80年代の「ミュージシャン」に近い。「なりたい人」に対する「なれる人」の割合(「Youtuber」だったら「稼げる人」の割合)が微妙に少ない、という意味において同等、という気がする。

 そういえば、僕の知り合いにプロのミュージシャンになった人がいる。最初、彼は自分のバンドを作ってデビューしたんだけど、結果的にはアルバムを1枚出しただけで終わった。でも彼のドラマーとしての技術は本物だったので、その後長らくアン・ルイスのバックバンドのドラマーをやっていた。僕の住んでいる街にアン・ルイスが来たとき、コンサート後に、たまたま僕の行きつけのカフェ・バーに、彼がバックバンドの面々を連れてきたことがあった。それは単なる偶然だったんだけど、昔話に花が咲いたことは言うまでもない。今はどうしているのかな。あ、そういえばもう一人、プロドラマーの知り合いがいた。自己申告で知ったのだが、何しろステージの上では動物の頭をかぶっているので、真偽の程は定かではない。

 それはさておき、若者に将来の夢を聞くと、たまに「趣味と実益を兼ねる仕事」なんて答えが返ってくることがある。でもねえ、さっきも書いたけど、そんなものはまず存在しませんよ。

 僕は絵が描けるので、若い頃絵を売ったことが何度かある。売れるのは嬉しいのだけれど、その頃よく「お金は必要なんだけど、この絵は売りたくないなあ」とか、「この人に頼まれたモチーフを、描きたくもないのに金のために描くのか」などと思いながら絵を描いていた。つまり、その時点ですでに趣味の範疇じゃなくなっていたんだね。

 趣味というのは、やりたい時にやる、自分の楽しみのためにやる。そういうものだと思う。例えば絵を描くのだったら「この風景を描きたいから描く」とか、「このモチーフを絵にしてみたいから描く」ということだと思うんですよ。それが、金のためであるとか、依頼主に対する責任から描くとかであれば、それはもはや趣味じゃない気がするんだよなあ。要するに僕の中では、お金の問題もさることながら、趣味と仕事の一番の違いは、趣味には他人に対する責任がないことなんですよ。

 しっかり稼いで時間も確保。その両方を上手く使って趣味を楽しむ。そう考えると、自(おの)ずから理想の仕事は限られてくる。だからといって、たとえ理想的な仕事に就けたとしても、そう上手く行くとも限らない。そんな状況で、自分がどう工夫して収入と時間を確保するか。問題はそこだろう。

 そういえば、理想の職場を追求するためかなんか知らんけど、昨今、転職するのが当たり前、といった風潮がある。これってどうよ。あんまり煽らない方がいいと思うんだけどなあ。今いる職場がよほどのブラック企業、というのなら話は別だが、そうそう理想的な職場なんて見つからないと思う。さっさと慣れちまった方が手っ取り早い気がする。だいいち、職場を転々として退職金を目減りさせるのがオチ、というのでは話にならない。それにまだ社会というものをよくわかっていない若い人たちもいるわけだからね。もっとも、転職が趣味です、というのならその限りでもないけど。

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 素人の浅はかさ

 最近TVを見ない人が増えたんだって。特に若い世代にその傾向が強いそうだ。どうも彼らの間ではネットで画像を楽しむことのほうが普通になっているらしいんだよね。勿論アニメやドラマなどのネット配信のことを言っているんだろうと思ったら、Youtubeなんかも含むそうだ。でもねえ、それってどうなんだろうか。確かにTV番組なんかでも、もはややることがない観のあるドラマの世界や、ちっとも笑えないお笑い番組なんかを見ていると、「世も末だな」なんて思うことはある。でもドキュメンタリー番組はまだまだ頑張ってる。

 TVの場合は放送倫理というものがあって、問題のある番組とかとてつもなく馬鹿げた番組とかは最低限淘汰されている。しかも作る側だってプロ集団だから、良い番組もまだまだたくさんある。Youtebeとかは発信者のほとんどは素人だから、そもそも出来を期待するものでもないのだろうけど、なかには奇をてらった内容を流すだけで閲覧回数を稼ごうとするような輩(やから)もいて、犯罪行為に認定されるものまであることはご承知の通りだ。素人の動画には発信前のチェックなんて無いからね。ネットの良さは素人が自由に発信できるところだと言ってしまえば確かにそうなんだけど、だからといってあまりくだらないものばかりに慣れ親しむようでも困るわな。

 同じようなことは写真の世界にも言える。例えば最近よく話題になる自己中な「撮り鉄」の記事なんかを見ると、プロのアプローチとは違ってマナーもへったくれも無い。そもそもプロはホームなんかで写真撮らないもんね。それに、アマチュアだってその列車が走る路線を事前に踏査して、ポイントを見つけておくぐらいのことはするもんだ。だいたい混み合うのがわかっているホームで報道カメラマンみたいに脚立使うなんて、僕に言わせれば愚の骨頂だ。あれではただの野次馬だし、鉄道ファンの印象を悪くするだけだ。さらに鉄道業務に支障を来すような行為を平気でするに至っては、もはや鉄道ファンとは言えないだろう。

 最近では似たようなことが動物園でも起こっていて、脚立を立てて陣取ったカメラマン(じゃないよなあれは。ただの素人だから。)が邪魔で、並んでいた子供が動物見られなくて悲しい顔してた、なんていうニュースが流れていた。お前らそれでも人間か?人間的な行動ができないなら檻の向こう側に行けよ。多分そうやって粘って撮った写真や動画を、これまたネットで発信したいんだろう。「これ撮るのに何人もの人に迷惑掛けました。おまけに子供を泣かせました。最低の作品です」ぐらいのコメントはしてくれるんだよな?

 昔は動画にしろ画像にしろ、アマチュアがそれを発表したり発信したりできる機会は限られていたし、専門誌への投稿やコンテストには必ず審査があったから、人の目に映る作品はそれなりに質の高いものだった。だが今では、誰もがネットを通じて発信できる。そこには他者の「審査」がないから、「自己満足」だけで作品を発表できる。この安易さが、先に挙げたような素人のエスカレーションを招いているんじゃないのかなあ。

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 「赤とんぼ」

 「赤とんぼ」。言うまでもなく、日本人なら誰でも一度は聞いたことがあるであろう、有名な童謡。この歌の歌詞は作詞者である三木露風の幼い頃の記憶によるものだそうだ。

 露風は5歳の時に両親が離婚し、母親と生き別れている。ある日幼稚園から帰ると、すでに母の姿は消えていたんだって。その後は祖父の家に引き取られ、奉公に来ていた「姐や」が面倒を見てくれた。だがその姐やも1年後、歌にもあるように十五で嫁に行ってしまう。幼くして大事な人との別れを2度も経験したわけだ。寂しかったろうなあ。

 背負われて一緒に赤とんぼを見たのは姐やということらしいが、桑の実を摘んだのは、「まぼろし」というぐらいだから母親との記憶かもしれない。ネットには三木露風や曲自体を分析しているブログがたくさんあるから、ここでは詳しくは触れない。今日取り上げたいのは歌詞の「山の畑の桑の実を 小籠につんだはまぼろしか」という部分。

 ある程度の年齢になれば、誰でも「あれは本当にあったことだったのかしら、それとも心が作り出した虚構なのかな」といった曖昧な記憶をもっていることと思う。そしてそんな記憶ほど、いつまでも印象が薄れず、ことあるごとに思い出す。違いますか?かく言う僕も、そんな記憶がいくつかある。なかでも不可解なのが、幼稚園かそれより前、高さ2メートル以上はあろうかという、石碑というか位牌を見た記憶。何かの店舗の一番奥に鎮座していて、天窓から差し込む光がそれを明るく照らし出していた。大きさから「石碑というか位牌」と書いたが、記憶では明らかに位牌のイメージ。というのも、黒の漆塗りで金の文字と装飾が施されているように見えたからだ。でも、仮にその店舗が仏具店だったとしても、徳川家の菩提寺じゃあるまいし、高さ2メートルの位牌はあり得ないだろう。もし宣伝用の張りぼてなら店の外、もっと目立つところに置くはずだ。そして何よりも、クリスチャンであった母が僕を連れて仏具店を訪れる可能性は低い(と言っても、母は宗教に対して強いこだわりを持っていたわけではないので、ゼロではない)。一体どんな思い違いをしているのだろう。 

 もう一つは薄曇りの空の下、どこまでも続くトウモロコシ畑の脇の道を歩いている記憶。これについては「あそこかな?」と思える場所があるのだが、前後の記憶は全くなくて、ただただトウモロコシ畑だけの記憶。誰かに「ここは天国かい?」と聞いたら、「いいや、アイオワだよ」なんて言われそう・・・(※)。たまに、夢の内容がしっかり記憶として定着することがあるじゃないですか。その類いなのかなあ。

 三木露風が母親と別れたのは5歳の時。一緒に桑の実を摘んだのが母親だとすれば、それ以前のことのはずだから、記憶が曖昧なのも無理はない。でも、「あれはまぼろしだったのか」という言い方からすると、「曖昧な記憶」というより「はかない記憶」と表現した方が、露風の心情としては正しいかもしれない。今はもう確かめようが無い、でも本当のことであってほしい母の記憶。これがもし夢の記憶だったらちょっと悲しすぎる。

 後年、露風は生き別れになっていた母親の通夜に現れると、遺族に「母の亡骸のそばで眠りたい」と頼み、同じ部屋で就寝した。67年ぶりのことだったそうだ。

※ 映画「フィールドオブドリームス」の亡くなった父親と主人公の会話。広大なトウモロコシ畑の片隅で交わされる。

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 狂い咲きかな・・・?

 今日は10月23日。晴れ。最高気温21度。うちの敷地を囲むフェンスの一角で、朝顔が咲き誇っている・・・って、今、秋真っ盛りですぜ。何なんだこれ?

 見ての通り、この品種はちょっと変わっていて、お値打ちものではないものの、なかなかおしゃれな花を咲かせてくれている。しかも真っ昼間になっても萎むことがなく、太陽を追って咲き続ける。実は8月から蔓は伸びるものの一向に花が咲かず、不思議に思っていたのだが、他にも植えてあったごく普通の品種が盛りを終えてしばらくの後、9月中旬あたりからやおら咲き始めたのであった。よく見ると葉の形も普通の朝顔とはちょっと違っている。品種名、なんて言うんだったかな。種の袋を取っておくんだった。

 そういえば前にもこんなことがあった。青空のような色の朝顔が大量に花をつけ、9月の末まで咲き誇っていた。あまりに見事に咲くもんだから、通りすがりの人によく褒められた。おそらく今年門扉に絡まって咲いたもう一つの株がそれで、こんなところに植えた覚えはないから、勝手にこぼれた種から芽を出したのだろう。しかし、これって異常気象の影響なのかな。それともある種の狂い咲きなんだろうか。もしかしてそういう品種なのかも?でも説明書きにはそんなこと書いてなかったけどなあ。

今年植えた株。斑入りの花で、所々にピンクも混じっている。色の濃淡も様々。これ、一つの株から咲いているんですよ。
手前の鮮やかなブルーの花が、おそらくこぼれ落ちた種から芽を出したもの。門扉の向こう側にもいくつか咲いている。個人的にはこっちの方が好き。遠くに見える青空と同じ色だ。2枚とも10月23日の正午に撮影した。ちなみに庭のヤマボウシは赤く色づき始めている。晩メシは栗とキノコの炊き込みご飯の予定。

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 おでんの具

 おでんにソーセージを入れるか入れないか。この論争はその筋では有名な話で、僕自身は入れない派。だからカミさんの実家のおでんにソーセージが入っているのを見た時に、「えーっ!」と思った。昭和の、少なくとも僕の知っているおでんではあり得ないことだったからだ。逆に僕が自分の思うおでんを披露した時に家族が一番驚いたのは、僕がおでんの具としてジャガイモを入れたことだった。

 前回書いた屋台のおでんにはジャガイモは必ずと言って良いほど入っていた。出しがほどよくしみ込み、それでいて煮崩れしないように炊いたジャガイモはとっても美味。だから僕の中ではおでんにジャガイモが入っているのは当たり前のことだったし、調べてみればジャガイモを入れているおでん屋は結構あるものの、幼少時にカミさんの実家で世話になっていた娘たちにとっては、ソーセージ入り・ジャガイモなしのおでんが定番になっていたらしい。

 そもそもソーセージおでんの出現は、ある時期にポトフとおでんのイメージが混在したことに原因があるようだ。だが、よくよく調べてみると、確かにポトフを「洋風おでん」と称することはあるものの、実はこちらもソーセージは入らない。欧米では煮込み料理の風味付けに燻蒸した保存肉(ベーコンやソーセージ)を加えることが多いので、そうしたアレンジをされたポトフのイメージがおでんにも伝播したのかもしれない。何しろ数多くのポトフレシピを紹介しているネット記事でも、材料として必ずと言って良いほどソーセージが含まれている。オリジナルのポトフにわざわざ「牛かたまり肉を使ったポトフ」なんて見出しがついているのを見ると、やれやれ、なんて思ってしまうのだが、まあ「時代」なんでしょうかねえ。

 確かによくできたソーセージは美味しいし、僕の好きな食材の一つでもある。焼くか揚げるか、温める程度にゆでて食べることが多い(※)。良い出しが出るのも事実だ。だからポトフの具材として定着するのはわかる。だがおでんに入れるとなると、ソーセージの薫香は強すぎて、繊細なおでんの関西風出しの香りを台無しにしてしまうような気がする。勿論ソーセージの入ったおでんを否定するわけではないのだが、どうも「別もの」感が拭いきれない。結局二鍋作ることになってしまう。馬鹿だねえ。こだわりすぎだよ。

※ レタスを一緒に湯がき、ソーセージの皿に残ったゆで汁に粒マスタードを溶かし、ちょっとクタクタになったレタスを浸して食べるのがなんとも美味しいのですよ。

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 ご無沙汰しました。何せ、7月に買い換えたばかりのパソコンの液晶モニターが調子悪くて、修理に出していたものだから(勿論無償でパーツ交換)、間が開いてしまいました。さて、そうこうしているうちに秋も深まり、そろそろおでんの恋しい季節。というわけで・・・

 屋台のおでん

 屋台のおでん、と言っても、夜に福岡の中州や東京の路上などで見かけるものとはちょっと違う。僕が今から書こうとしているのは、昭和の時代に学校の運動会などに店を出していた、あの懐かしいおでん屋のことだ。

 全国的なことだったのかどうかはわからないので一応説明すると、昔僕が住んでいた地域では、学校の運動会にアイスキャンディー(ゴムの袋に入っている)や卵アイス(これもゴムの袋に入っている)のお店と並んで、おでん屋の屋台が店を出すのが普通だった。時代が進むにつれていろいろと差し障りが出てきたのか、今ではすっかり鳴りを潜めてしまったが、当時はこのおでん屋が重宝した。

 小学校の運動会といえば、昼食は応援席に陣取った親と一緒に食べるのが常だが、当時はおにぎりやいなり寿司などの主食に簡単なおかず、そして温かいおでんを買い足すという人も多かった。高学年になると、食事が終わった後におやつとして買い食いすることもあって(昼食時はそれが許されていた)、なんともおおらかな時代だった。

 今でもよく憶えているのだが、具材はすべて串に刺されていて、注文したものを経木でできた舟形の皿に盛って渡してくれた。一般的な具材は10円、高いものでも20~30円ほどだったと思う。定番の練り物よりも高級な「玉子」と「肉」があって、練り物の2~3倍の値段だった。「肉」というのは、実は鳥の皮で、ある意味肉ではないのだけれど、いつまでも口の中に残るので変に得した気分になったものだ。

 これらの店は昨今東京の路上などで見られる屋台とは別物で、おそらく「テキ屋」と言われる部類の店だったのだろう。休みの日に近くの公園に行くと、同じ業者かどうかはわからないが、似たような内容で商売をしているおでん屋の屋台をよく見かけた。当時の子供にとっては、駄菓子と並んで格好のおやつだった。

 今ではこうした屋台は祭りの縁日などでしかお目にかかれなくなった。しかも「おでん屋」を目にすることはほとんどない。家であの味を再現しようとしたこともあるが、市販の出しではどうも違う気がしてならない。おそらく思い出の中の味とは、いろいろな要素が絡み合った特別なものなのだろう。

付記 おでんと言えばもう一つ思い出すのが、漫画「おそ松くん」に登場するキャラクター、チビ太がいつも持っていたおでん。三つの具が1本の串に刺さったもので、原作者である赤塚不二夫氏の少年時代(昭和20年代?)に屋台で1本5円で売られていたものがモデルだそうだ。ちなみに具は上からこんにゃく、がんもどき、ナルト(諸説あり)。場面によっては他の組み合わせも見られる。味付けは関西風という設定だ。今では「マンガ肉」と同様に、「チビ太のおでん」を提供する店もあるそうだが、当時の僕はついぞお目にかかったことがなかったなあ。

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 ネットロアって何? その2

 (前回からの続き)こうしたネットロアは、今では数多く紹介されているが、なかでも傑作と言われているのが、あの有名な「くねくね」だ。帰省した子供たちが田んぼの片隅で怪異を目撃する話なのだが、深入りした一人が「(あれが何か)わからない方がいい」と言い残して廃人のようになり、結果的に何が起こったのかは不明のまま。当然くねくねの正体もわからずじまいだ。だが土地の大人たちは何が起こっているのかを知っているらしい・・・。この話は創作であることがわかっているが、おそらく作者はジョン・マーティン・リーイの書いたホラー短編「アムンゼンの天幕(※)」を読んでいるだろう。コンセプトに類似点が多い。だが、両者を比較すると恐怖の度合いは「くねくね」の方が上だ。何しろ「アムンゼンの天幕」の舞台が南極大陸という遠隔地であるのに対し、「くねくね」の怪異は人間が居住する身近な場所で起こっている。

 もう一つ、興味深いのが「かんかんだら」。禁足地に足を踏み入れ、禁忌を犯したヤンキー少年たちが経験する怪異を描く。こぎれいな住宅に住む現代の若者たちが主人公で、入ってはいけないと教えられてきた森の奥、つまり生活圏の近隣に、フェンスと注連縄で囲われたエリアがあり、そこに侵入した少年たちが見たものは・・・という話。怖いのは、なぜか大人たちが対処法を知っていて、早急に対策を講じる場面だ。今回のような事例が少なからず繰り返されてきたらしいことがうかがえるし、地域の大人たちにとって、それが通常の生活の一部、つまり現実であることがわかる。聞き慣れない用語、正体不明の巫女の存在、さらに怪異の始まりは遙か昔に遡るという事実が明かされるなど、まさに現代に息づく伝承といった印象だ。中編と言っていいボリュームなので、是非とも映画化してもらいたいものだ。

※ 「アムンゼンの天幕(1928)」 ハヤカワ文庫「幻想と怪奇2 ポオ蒐集家」に収録。南極探検隊が探検家アムンゼンのものと思われる天幕(テント)を発見する。中を覗いた隊員がそこにいたものを見て発狂し、まだ見ていない隊員を「絶対に見てはいかん!人間が知ってはいけないこともあるんだ!」と死に物狂いで制止する。

 ところで、ネットロアはよく暴走する。これはダークサイド・ミステリーからの受け売りだが、前記した「くねくね」の場合、「知ってます。これってタンモノ様のことですよね。東北の爺様婆様はみんな知ってます」であるとか、「『あんちょに気をつけろ』と祖父母に言われました。『白いうにょうにょした案山子(かかし)みてえなやつだ』と聞いています」などといった書き込みがあったらしい。だが識者が調べてみてもそのような伝承は皆無だそうだ。これが本当なら、現代のネット文化は、本編を補填する民間伝承そのものをも創作していることになる。まさに「民間伝承を装う」といった体(てい)だ。民族学の祖、柳田国男氏が生きていたら、この現状を見てどんな顔をするだろうか。だが、古来の民間伝承がどのようにして生まれたのかを考えると、あるいは今とあまり変わらない状況だったかもしれない。例えば件の柳田国男氏が紹介した「座敷わらし」なども、おそらく元ネタがあったはずで、長い年月の間に民間伝承として定着したと考えるのが自然だろう。だとすれば、僕たちは今まさに、新たな民間伝承の誕生に立ち会っていると言えるのかもしれない。

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 ネットロアって何?

 例によって今年の夏も大した心霊番組はなかった。仕方がないからネットで怖そうな話を検索する。僕がよく覗くのは「死ぬほど洒落にならない怖い話」だ。「洒落恐(しゃれこわ)」という言い方で通っている。なかでも僕が好むのが地方に纏わる話だ。これがいわゆるネットロア(インターネット・フォークロア、ネット上の民間伝承。都市伝説もこれに含まれる)と言われるもので、その多くはネット上で生み出された創作だ。

 この記事を書くきっかけとなったのは、NHKのマニアックな番組、「ダークサイド・ミステリー」。そのネット怪談を特集した回で、ネットロア発生の過程を説明する大学教授が発した「ネット怪談は民俗学を装いたがる」という言葉だった。

 現代の若者の間でも「地方に纏わる怖い話」は人気が高いらしいが、確かにこうした怪異譚にはいわゆる都市怪談とはひと味違う民俗学的な魅力がある。ロケーションから言っても、田舎といえば、古い大きな旧家には必ずと言って良いほど普段使わない奥座敷や昼なお暗い納戸(なんど=収納スペース)があるし、時間を遡ると風呂場や厠(かわや=トイレ)が母屋とは別棟にあったりする。つまり、日常生活の中に子供が恐怖を覚えそうな場所や状況が当たり前のように存在しているわけだ。さらに地方の共同体には昔からのしきたりや行事・祭りがあり、中には謂(いわ)れが忘れられてしまったような得体の知れないものもある。怪異譚が生まれる条件は十分満たされていると言えるだろう。

 ホラー作家であり、岡山県出身である岩井志麻子氏のある対談(双葉文庫刊「ホラージャパネスク読本」に収録)では、「ナメラスジ」という言葉が頻繁に出てくる。これは岡山県のある地方で言う「『魔』の通り道」のことで、その地方ではごく普通に日常会話の中で使われている。例えば「あの場所はナメラスジにあたるから、コンビニができてもすぐ潰れる」といった具合だ。これは民間伝承イコール日常となっている良い例だろう。こういった例は地方ではよく見られるもので、都会の住人を戸惑わせる一要素となっている。

 参考までに紹介するが、岡山県では1938年に、横溝正史氏の代表作の一つである「八つ墓村」のもとになった「津山三十人殺し」と言われる大量殺人事件があって、その犯人である都井睦雄(事件直後に自殺)の家はナメラスジにあたっていた、という話がある。映画化された「八つ墓村」の冒頭、鬼のような形相の男が懐中電灯を角のようにはやし、日本刀と猟銃で武装して疾走するシーンがあるが、あれは誇張でも演出でもなくて、都井睦雄は現実にあのような格好で集落内を疾走し、2時間ほどの間に30人を殺害した。まさにナメラスジを走り抜ける「魔」。現場は山間の集落で、夜這いの風習が残っていたという。当時は今以上に地方と都市部との文化的な差異が大きかったに違いない。だが男尊女卑の風習が廃れた現代においても、女人禁制のしきたりを固持している聖域が、地方には今だに存在している。現代文明の影響力が及ばない、こうした「場所」の持つ都会人の理解を超えた異世界感も、「民俗学を装うネットロア」の魅力の一つと言えるだろう。(つづく)

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 コロナ・・・かな?

 次女が8月の25日に熱を出した。頭痛に加え、身体の節々も痛いという。発熱外来で検査の結果、「疑いようもなくコロナですね」と言われて帰ってきた。「若いからこれでしのげると思うよ」というわけで、処方されたのは解熱・鎮痛剤のみ。へえ。今はこんなふうなんだ。だがちょっと待て。僕たちはその直前に家族旅行をしている。その際に、「そのケーキ、ちょっと味見させてよ」なんていうことが何度かあったし、何しろ往復の行程では当然1台の車の中で3人が長時間過ごしている。これはヤバい。

 次女は薬のおかげか3日ほどで熱も引き、その後5日間の自宅療養。すると案の定、ちょうど娘の療養期間が終わるその頃にカミさんが発熱し、夏風邪のような症状を発症。家にあった市販薬「イヴ・クイック」で対応。その3日後に僕が発熱。一計を講じ、娘の飲み残した処方薬を使ってみた(よい子の皆さんは真似しないようにね)。その結果、カミさんも僕も2~3日で熱が下がった。結局病院には行かなかった。かなり乱暴な対処に思えるだろうが、コロナと診断された娘が解熱・鎮痛剤しか処方されなかったわけだから、とりあえずこれで様子を見よう、という判断だった。勿論、万が一の急変には即応できるようにしていたけどね。

 結果的に大事には至らず、僕たちは娘がもらってきたマニュアル通りに、熱が下がったあと5日間自宅に籠もってすべて終了。僕に関して言えば、発熱以外の症状はほとんど無かった。ただ、旅行から帰ってすぐにカミさん共々おなかを壊したのは、もしかしたらコロナの初期症状だったのかもしれない。

 結局病院にも行かず、検査もせずに済んでしまったので、あれがなんだったのかは正式にはわからずじまい。もしかしたらインフルエンザだったかもしれないし、ヘルパンギーナだったかもしれない。でも、状況からすればやっぱりコロナだったんだろうなあ。だとすると、症状的にはかなりの軽症。運が良かった。ネットで見る限り、いまだに重症だったり、薬を飲んでも1週間以上酷い頭痛が続き、その間熱も下がらなかった、なんていう例も多いようだから。

 面白いことに、事後にこの話をすると、コロナに罹った事のない人のなかには「ただの夏風邪だったんじゃない?」なんて言う人もいる。ところが、すでにコロナに罹ったことのある人は口をそろえて「それは絶対コロナだよ」と言う。まるで仲間を増やそうとしているかのようだ。何だろう、この摩訶不思議な同調圧力は。