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 今年のクリスマスケーキ

 クリスマスの準備をしている。ドイツの風習にちなんで、毎年4週間前から始める(アドベントという)。ネットで確認したところ、北米防空司令部(NORAD/ノーラッド)も今年のサンタ追跡の準備を始めたようだ(「ノーラッド サンタ追跡」で検索)。僕は僕で、現在ケーキに使う食材を買い集めているところだ。

 以前は既製品を買っていたのだが、「去年のあれ、美味しかったよね」の、「あれ」が翌年にはなかったりするので、ここ数年は当時のカタログを参考に、自分たちで作るようになった。大学生の娘はバタークリームケーキとショコラムースのケーキを、僕はダークチェリーとピスタチオのブッシュドノエルを作るのが定番だ。娘は今年、ショコラムースにフランボワーズムースを組み合わせてアレンジしようと計画しているらしい。僕は生クリームとショコラの2本立てに挑戦してみようかな。そんなにたくさん作ってどうするんだ、と言われそうだが、今年のイブには親族が9人集まるので、結構はけてしまう。お土産に持ち帰る人もいるし、翌日までは美味しく食べられる。ただし右腕の筋肉痛は必至だな。どうも電動泡立て器は性に合わないのですよ。生クリームのホイップは人力のほうが早いしね。

 参考までに言うと、今年はメインディッシュとしてラムチョップの赤ワインソースを作る。ソースはクックパッドにあるようなケチャップを使ったものではなくて、フォンドボーと蜂蜜を使ったもの。よりフレンチっぽく、ね。

 定番の鶏モモのローストとローストビーフは行きつけの精肉店の既製品。オードブルには市販のテリーヌを用意した。もちろんサラダも作るが、ケーキのことを考えると、どう見ても栄養バランス的に不健康なメニューだ。でも家族全員が太らない体質なので、うちの場合は問題なし。

 今一番困っているのが、我が家のクリスマスには欠かせないシャンパンを含む、ワイン類の価格が高騰していること。その昔4~5,000円で買えたシャトー・カロン・セギュールが20,000円超とか、ふざけんじゃないよと言いたい。昔は無理すりゃドン・ペリニョンのロゼだって買えたんだよな。それが今では40,000円前後、とても手が出ない。かといって、さすがにシャンパンは自前で作るというわけにはいかない。仕方が無いからモエ・エ・シャンドンのロゼで我慢する。と言っても、これだってそこそこ良いシャンパンではある。そう言えば「めぐり逢い」という映画(1957年)で、デボラ・カーが「ピンク・シャンペィン」なんて言ってオーダーしていたっけな。そんでもってちょこっと耳の後につけたりして(香水代わりかと思ったら、縁起担ぎのおまじないらしい)。なかなか粋ではないですか。あーあ、シャンパンの値段にしろ、映画にしろ、昔は良かったなあ。

 さて、ケーキであるが、娘は今回、なぜかケーキ作りに例年にない意欲を見せている。イブに向けて二つのケーキを作るだけでなく、今までに4回作ったがいずれも満足のいく出来にならなかったムースケーキに、25日(クリスマス当日)に再挑戦するという。娘は大学の4年生、卒論も大詰めだ。こりゃあれだな、ほら、テスト勉強をしているとなぜか部屋の模様替えをしたくなるという・・・。まあ、それも良いか。就職も決まったし、来年からはそうそうケーキ作りにいそしむこともできないだろうから。だが待てよ。ということは、来年からはその分も僕に回ってくるということか?

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 ゲテモノ?それとも美食?

 熊の肉をもらった。鹿やイノシシはもちろん、マガモやワニなども食べたことがあるが、熊は初めてだ。くれたのは懇意にしている保険会社の女性。映画好きで、真っ黒のボルボに乗り、知人にはヤバイものが見える人がいるという何とも魅力的(?)な人。この人は何か面倒な食材が手に入ると、僕に電話をかけてくる。この前は「ヒナが入っていたら食べないでくださいね」とか言いながら、合鴨の卵(生)を持ってきたっけ。恐ろしい話だ。想像してみてください、ゆで卵からヒナの死体が出てくるところを。ちょっとしたホラーじゃありませんか。多分監督はデビッド・リンチあたりだな。心理的にぐいぐい来そうだ。

 幸い全てが無精卵だったのだけれど、実を言うとぼくはこういうタイプのおつきあいが少なくない。「マガモのロース。散弾が入ってたらよけて食べてね(昔の同僚)」であるとか、「アブラボウズ(魚です。僕もその時初めて知りました。)の切り身です。脂がすごく多いから食べ過ぎると腹を壊しますよ(教え子の親)」であるとか。今回の熊肉は「○○さん(僕のこと)料理できるし、珍しいもの好きそうだから、食べるでしょ?」何を根拠に言っているのだろう。

 その昔、職場の食事会とかで(ごくたまに)高級な日本料理店に行くのが楽しみだった。アワビのツノだとか白子だとかが出ると、みんな僕のところに回ってくるからだ。食べてみれば美味しいのに、イメージや見た目だけで食材を嫌う人の何と多いことか。なにしろ言い訳が良い。「僕は庶民で良いんです」だって。僕だって立派(?)な庶民なんですけど。いやその前に、アワビのツノや白子は庶民が食べてはいけないものなのか?だいたいこういう人たちはウニやイクラは喜んで食べるんだよね。卵巣は良くて精巣はダメ、これは明らかに性差別であろう。違うか。

 それで熊の肉なんだけど、上手く下処理しないと臭みが強いというのは知っていた。が、今回の肉は獲った直後に上手に処理(血抜きとか)されたらしく、そのままステーキ(味付けは塩・コショウのみ)として食べても美味であった。残りの半分は鍋にして食べたが、アクらしいアクも出ず、歯ごたえはあるがすっと噛み切れ、繊維が残ることもなく、家族で美味しくいただいた。正直なところを言うと、もう少し獣肉っぽい癖があっても良かったような気がする。でもこれはリピートしたいぞ。保険屋さん、またよろしくね。

 うちに「珍(めずら)かなるもの」が集まってくることは前記したとおりだが、よく考えてみると件(くだん)の保険屋さんもすごい。そのルートの一つになっているわけだから。しかも頻度としては一番だ。いったいどんな人脈をお持ちなのだろうか。熊肉についてはどこぞのジビエ料理店経由(だから下処理済みだった?)ということだったが、前回の合鴨の卵はどのようなルートで入手したのだろう。何にせよ今後も期待が膨らむばかりだ。保険屋さん、これ読んでます?次はカラスが食べてみたいです。

 いやー、解約しなくてホント、良かったなあ。

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 女は強いぞー。

 マサヨばあちゃん ムツばあさん 両方とも知ってる人!

 マサヨばあちゃん・NHKのドキュメンタリー「マサヨばあちゃんの天地(1991)」の主人公。

 ムツばあさん・同じくNHKのドキュメンタリー映画「花のあとさき ムツばあさんの歩いた道(2020)」の主人公。

 この人たちはご主人が先に逝ってしまった後も、自分たちの土地(農地)を守りながら生きていく。その姿がけなげでもあり、力強くもある。NHKは時々こういう番組作るよね。何か約束事でもあるのだろうか。

 生物学的に言っても始めにメスありきで、オスは交配によってより良い子孫を作るための道具として自然界が発明した、という話を聞いたことがある。要するに「オプション」だ。だから自然界には用済みになるとポイされたり食べられちゃったりするオスもいる。寿命を比べても女性のほうが長生きだ。ところが人間には文化というものがあるから、男どもはその中で男尊女卑のしきたりを作り、押さえつけてきた。おっかなかったんだろうねえ、いろいろと。実際、日本の古い禁忌などをひもとくと、とにかく女性を卑下するものが多い。女人禁制の神域とか、生理中や妊娠中の女性を生活圏から遠ざけるとか。柳田国男がそういった禁忌を全国から集めた本があるから、一度読んでごらんよ。今ではあり得ないことだらけだから。極端な例では嫁が生理中(妊娠中だったかな)の旦那まで遠ざける習慣もある。一種の「ケガレ」ととらえられていたんだね。それでいて天照大神や卑弥呼を神と崇めたり、女王として敬ったりしてきたのが日本人なんだよな。もっとも、日本開びゃくの、つまり国産みの時のイザナギとイザナミの逸話には、契りを交わすに当たって女神から声をかけたら上手くいかなくて、あらためて男神から声をかけたら上手くいったとあるから、ある意味徹底しているとも言える。でも結局何が言いたいのかは実のところよくわからん。

 今回のオリンピックの前後に、この女性蔑視の問題が大きくクローズアップされた。時を同じくして、韓国ではフェミニズム運動が巻き起こった。ただしこちらはちと脱線のきらいがある。が、この際難しいことは置いておこう。結局は女のほうが根っこは強い。多分それが真実であろう。認めたまえ。かのジョン・レノンにも「WOMAN」という名曲があるではないか。

 マサヨばあちゃんはご主人亡き後も仏壇に手を合わせ、時にはご主人との思い出に涙ぐみながらも、二人で切り拓いた土地に死ぬまでただ一人住み続けた。急斜面の荒れた土地を耕し、自前の味噌を仕込みながら。子どもたちがいくら引き取ろうとしても家を離れなかった。多分、男には理解できない理由があったのだろう。

 ムツばあさんは、年老いて畑が耕せなくなったら、せめて花いっぱいにして山にお返ししようと、仲間とともに花木の苗を植え始める。この仕事はご主人が亡くなった後も続き、やがて誰もいなくなった庭先には鹿や野ウサギが帰ってくる。なんだか自然の一部としての人間の、正しい生き方を教わったような気がする。

 余談だが、スタインベック原作の映画「怒りの葡萄(1940)」に出てくる主人公トムの家族は、1930年代のアメリカで、砂嵐による干ばつをきっかけに資本主義に押し流され、土地を追われる貧困農家。故郷オクラホマを捨て、新天地カリフォルニアを目指して旅立ったは良いが、行く先々で逆境にさいなまれ続ける。娘婿は逃げだし、祖父母は病死。トムも人を殺(あや)めて姿をくらましてしまう。それでもトムの母親はくじけることなく前を向く。そして映画のラスト、「ワシはもうダメだ、疲れちまったよ」と弱音を吐く旦那に、「男は何かあるとすぐ立ち止まる。女は川みたいなもんでね、渦巻こうが滝があろうが流れ続けるのさ。それが女の生き方なんだ」と微笑みながら語りかける。女性の強さとは、男性には計り知れない自然との一体感から来るものなのかも知れない。

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 大人の考え、子どもの感性

 そろそろ12月。クリスマスもすぐそこまで来ている。毎年この時期になると思い出すことがある。

 もう20年以上前の、長女が小学校に上がる前のこと。誕生日のプレゼントを買うために、僕らは家族総出でトイ○○スを訪れていた。長女は半年前のクリスマスに「101匹わんちゃん」のぬいぐるみを手に入れていたので、今回はその「わんちゃん」たちのためにほ乳瓶を手に入れようとしている。長女が目をつけたのは10センチあまりの、ミルクとオレンジジュースの入ったほ乳瓶のセットだった。価格は確か1,000円に満たなかったと思う。他にももっと高価な、凝った作りのものもあったのだが、長女は「わんちゃん」たちには大きすぎるという。子どもながらにいろいろと考えているらしい。僕が「まあ良いんじゃないか。本人が気に入っているんだから」と言うと、祖母が反対した。せっかくだからもっと良いもの、高価なものを買ってやれと言うのだ。僕が長女に他に欲しいものが無いか聞いてみても、ほ乳瓶は前々から考えていたものらしく、「これが良い」と言う。「本人が一番欲しいものを買ってやるんだから、これで良いだろう」と主張する僕に、祖母は不服そうだった。最終的にはほ乳瓶の他にあと二つの品物を購入して丸く収まったのだが、こういったことは、実はよくあるらしい。

 同じくクリスマス間近のトイ○○スでこんな光景を見た。若い両親と祖父母。幼い子どもが二人。一人は父親の背中で眠ってしまっている。もう一人は母親の手を引っ張って「あっちがいい!」と大騒ぎしている。そんな子どもたちをよそに、大人たちは「これが良いんじゃないか」「いや、こっちの方が・・・」と、家族会議に没頭している。僕はそれを見て思った。「誰も子どもの意見を聞いてねーな。」子どもを喜ばせるための買い物だったはずが、いつの間にか大人の自己満足のためのそれに変わってしまっている。

 以前どこかで書いたバタークリームのケーキ。母は着色料を気にしてイチゴショートのクリスマスケーキを買う。だが僕は、色とりどりのクリームで飾られたバタークリームケーキが好きだった。イチゴショートは当時、高価でもあったから、母にしてみれば子どもを思ってのことなのだろう。だが子どもからすれば、欲しいものを買ってもらえない歯がゆさばかりが残るのだった。

 子どもはある程度の年齢になると、大人に気を遣うようになる。教員時代に、クリスマスや誕生日のプレゼントで、頼んだのと違うものが届いてがっかりした経験があるかどうかを生徒(中学生)に聞いてみたことがある。すると、過半数がそういう経験をしていることがわかった。そんな時どうしたか聞くと、さらにその半数ほどが「仕方が無いから喜んでいる振りをした」そうだ。親をがっかりさせたくなかったんだってさ。

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 肉のあれこれ

 世間ではいまだに牛肉が肉の頂点に君臨しているようだ。僕もA5ランクの肉を食べたことがあるが、確かに美味しい。それは認める。だが脂身の香りは豚肉の方が上だろう。脂身、というと顔をしかめる輩もいるだろうが、侮ってはいけない。だいたいハンバーグに合い挽き肉を使うのは、豚肉(の脂)のうま味や香りを加えるためであって、牛肉を節約しているわけではない。ハンバーグに関して、よく牛肉100%を謳う店を見かけるが、味わいの要素が一つ欠けていると言っても過言ではない。これから書くことを読んでいただければ納得がいくと思う。

 そのうち詳しく紹介しようと思うが、僕が料理に目覚めたのはまだ高校生ぐらいの頃。そのきっかけを作ったのが、当時放送されていた「世界の料理ショー」というTV番組だった。知っている人は多分、思わずにやりとしてしまう、そんなカルト料理番組だ。グラハム・カーという有名な料理研究家が、そのはちゃめちゃな話術を披露しながら一品仕上げる、という内容で、何を隠そうかの有名な料理番組「男子ごはん」のルーツでもある。そんな「世界の料理ショー」で使われていたある調理器具が、豚の脂身のおいしさ、香りの良さを如実に物語っている。それは直径1.5センチ弱、長さ40センチほどのステンレスパイプを縦に割ったような、雨樋のような形状の器具で、先が削(そ)いであって竹槍のようになっている。実はこれ、牛肉のブロックに豚の脂身を挿入するためのもの。そんな道具があるんだねえ。使い方は、細く切った豚の脂身を雨樋状の部分に挟み込んでパイプごと牛肉に差し込み、肉全体を押さえながら引き抜く。すると脂身だけが中に残る。これを何回か繰り返し、その牛肉をローストすると、火が通るに従って牛肉に豚の脂身の味と香りが染み渡る、という案配だ。この料理法やそのための器具が存在することが、肉料理における脂身の役割の大切さを物語っている。しかも、あえて豚の脂身(※)。

 もう一つ言いたいことがある。A5ランクの牛肉は確かに美味かった。しかし脂が多すぎて満足のいく量を食べられなかった。そもそもマグロの大トロには大トロの、赤身には赤身のおいしさがあるように、牛肉の赤身にも赤身ならではのおいしさがある。A5ランクの牛肉は、本来赤身であるはずのフィレにまでサシが入っていて、これは赤身のおいしさに対する冒涜と言うべきものだ(大げさだってば)。ところがサシの入っていない高級和牛のフィレとなると、それはそれでなかなか見つからない。目下のところ、これは我が家の食生活における最大のジレンマの一つとなっている。

※ この記事を読んで思い当たった人、いませんか?実はある料理マンガで、この方法を安い輸入牛の肉を美味しくソテーする方法として紹介している。ものがステーキなので、あの器具は使っていなかったようだけど。ついでに言うと、フィレの周囲にベーコンを巻いてソテーする料理もある。

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 続 昔はみんな旅に出た

 以前、若者が旅に出る話を書いた。今日はその続編。というのも、前回触れなかった曲で、やはり若者が旅に出る歌をもう一つ思い出したからだ。きっかけは旧車のオーナーを訪ねてレポートするTV番組。日産のスカイラインGTRが紹介されていた。

 スカイラインといってもいろいろあって、現行は13代目。昔は年代別にニックネームをもっていた。ハコスカ、ジャパン、鉄仮面・・・そして「ケンメリ」。車に詳しい人ならご存じだと思うが、この「ケンメリ」は正式に言うと「ケンとメリーの愛のスカイライン」ということになる。長ったらしく、口はばったい感じだが、これはTVコマーシャルに登場した男女のカップル、ケンとメリーに由来する。当時のキャッチフレーズも「ケンとメリーのスカイライン」あるいは「愛のスカイライン」。このスカイライン・ケンメリのCMに使われていたのが「BUZZ(バズ)」というフォークデュオの「ケンとメリー~愛と風のように」という曲だった。この曲の存在をすっかり忘れていた。

 この曲はもともと4代目スカイラインのCMのために作られたようだ。だからシングルでリリースされたものとCMで使われたものの二つの歌詞があり、CMソングにはしっかり「愛のスカイライン」という言葉が入っている。ところで、僕がこの曲をとても気に入っていたにもかかわらず、前回思い出せなかったのにはわけがある。ここに登場する二人は恵まれすぎているのである。何しろリア充で(歳のいっている人のために説明すると、しっかりおつきあいしている)、自分の車を持ち(しかも○ニーや○ローラではなく、スカイライン!)、お金に余裕があって、しかも暇を持て余している(日本中を巡る旅に出る。ロケ地の一つ、北海道には二人が撮影のために訪れたポプラの大木があって、今でも「ケンとメリーの木」と呼ばれている)。神田川の見えるアパートに住み、横町の風呂屋に通うカップルとは大違いだ。つまり、前回紹介した曲とは主人公たちの住む世界が違いすぎるために、記憶の網に掛からなかったのだ。

 「ケンとメリー~愛と風のように」は当時としてはとてもハイソな、お洒落な曲だ。後のJポップの走りのような曲調。歌詞を読んでも、「もうここにはいられない」といった悲壮な雰囲気は微塵もなく、「今こそ希望に満ちて出かけよう、新しい何かが見つかるかも知れない」といった前向きな内容だ。まあ、CMソングだから当たり前か。実際、スカイラインに乗って横町の風呂屋へ行くリア充カップルなんて誰も想像できないよな。駐車場とか無さそうだし。ところでその歌詞だが、これがまたなかなか詩的でかっこいい。

いつだってどこにだって 果てしない空を風は歌ってゆくさ  今だけの歌を 心はあるかい 愛はあるのかい

見慣れた時計を部屋に残して 今が通り過ぎてゆく前に    朝が来たら 出かけよう 今が通り過ぎて行く前に      愛と 風のように      

                (歌詞カードより抜粋)

 ちょっと良いでしょう?曲自体のアレンジは時間とともに変わっていくのだけれど、やっぱり最初のオリジナルが好きかな。

 前回紹介した曲とはかなり毛色が違うけど、こういう旅も、まあ、アリということで。 

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 大規模ワクチン接種会場にて

 先日二度目のワクチン接種をしてきた。接種したのはモデルナ製ワクチン。カミさんも娘も同じワクチンで、接種したタイミングは僕より少し早い。二人とも副反応として発熱と頭痛、それに接種部位のかゆみ(いわゆるモデルナアーム)があったが、僕は「風邪でもひいたかな?」といった程度で済んだ。やはり男女で差があるようだ。

 一度目の接種は若い女医さんで、この時は注射そのものが結構痛かった。今回はおばさん(失礼!)の女医さんで、これが全然痛くなかった。状況的に違っていたのはただ一点だけ、投げかけられた「肩を落として」という一言だった。女医さんが言うには、注射をする時にはほとんどの人が無意識に「構え」るので、筋肉が緊張するんだそうだ。そしてそれは、肩が上がっていることでわかる。その状態で注射針を刺すと痛みが増す。実際僕も肩が上がっていたらしく、それで「肩を落として」と声をかけられたわけだ。上手い言い方だ。「肩を下げて」じゃなくて「落として」。自(おの)ずと力が抜ける。そういえば前の女医さんは何も言わなかった。なるほど、だから痛かったのか。

 さて、接種は無事終わった。が、この話には後がある。当日僕はYシャツを着ていたので、肩を出すためにはそれを脱がなければならなかった。すると、下に着ていた黒のTシャツに飼い猫の白い毛が数本付いていた。僕が「すみません、飼い猫の毛が・・・」と言い訳をすると、アシストの看護士さんが「猫飼ってるんですか?」と聞いてきた。「ええ、今は6匹。」「6匹も!」その後話題は保護した猫の話から、アンプルやアンプルカッター(※)が今でも使われていることに驚いた話へと移り、さらに医療用ナノマシンの進化(この話題は女医さんの独壇場だった)やら、モデルナワクチンとファイザーワクチンの違いやら、やれネットのデマには閉口しているだの、この会場では希望して尻に注射した人がいる(仕事で両腕を使うから、だって)だのと、三人で盛り上がり、気がつけば20分近くもおしゃべりしてしまった。その間僕は後続の接種者をそれなりに気にしていたのだが、接種ブースの二人はどこ吹く風といった体(てい)だ。看護士さんはこの20分の間に一度だけブースの外に目をやったが、何も言わずに会話に戻ったので、あるいは時間的に間隙ができていたのかも知れない。

 やがて「あら、待機時間、大分過ぎちゃいましたね。」という看護士さんの言葉を最後にこの語らいは終わった。看護士さんは「楽しいお話、ありがとうございました。」と僕に言った。女医さんも微笑んでいる。もちろん僕も楽しかった。「いえ、こちらこそ。お世話になりました。」僕はいったい何をしに来たんだっけ。そうか、ワクチン接種だった。女医さんが「係の人が混乱するといけないから、一緒に行ってあげてね。」と看護士さんに言い、僕は看護士さんに連れられて接種完了の手続きをした。看護士さんの「この人は待機終わってるから、すぐに書類を作ってあげてください。」という言葉に、何も知らない係の人は「???」といった面持ちだった。僕は看護士さんにもう一度礼を言い、その後の待ち時間無しで会場を後にした。

 二人に会うことは多分もう無いだろう。マスク越しで顔もよくわからず、名前も知らない。でもあの20分間の語らいは久しぶりに楽しかった。単なるおしゃべりではなく、まさに「語らい」という言葉がふさわしい、そんな空気がそこには満ちていた。帰りの車中で、あの二人はいつもあんなふうなのかしら、それともたまたま僕は特別なタイミングに当たったのかな、などと考えていた。コロナ騒動がなければ、出会わなかったであろう人たち。確かに、他愛もない出来事ではある。それでも一生忘れることはないだろう。人生って、本当に不可解だ。ひょんな事で大きな拾いものをしたりする。何だか、久しぶりにスタインベックの「朝めし」を読みたくなった。

※アンプル:薬剤を密閉して保管するためのガラス容器。先が長い首状になっている。 アンプルカッター:アンプルの首の部分を折り取るために、ガラスに傷をつける道具。堅い砂を薄い板状のハート型に固めてある。

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 キャリア教育その他

 だいぶ前のことで恐縮だが、6月頃、SNSのニュースで「文科省はどこまで子どもたちを管理したがるのか」という記事を見た。そこには「高校生たちが自分の将来の夢と、それを実現するための計画を考え、期日までに提出するように求められてうんざりしている」とあった。これは多分、「キャリア教育」、もしくはそれに準ずる授業のことだろう。

 「キャリア教育」とは僕が教師をしていた頃に生まれた用語だ。いわゆる「進路指導」の一種で、自分の将来についてより具体的・現実的に考えさせようとするものだ。だがこれは将来の夢について思いを馳せることとはちょっと違う気がする。「夢」というより単に「予定」を立てているだけだ。意味が無いとは言わないが、まだ将来に夢を持てない生徒は、授業のために夢を考え出さなければならない。そうでもしないと夢を持てない子どもが増えてきたのも事実だが、強制されて紡ぎ出した、現実的な情報に裏付けられた将来設計はもはや夢とは言えないだろう。

 最近の学校教育はよくわからないことが多い。勤務時間の見直し(短縮化)を謳いながら、現実には仕事が増えていく。例えば、近年新しく導入された「道徳」の評価もそのひとつだ。道徳のような抽象的な価値観を評価させられる教師側は、その評価規準を作るだけでも大変だろうし、現場で使える時間は無限ではないから、作業の効率を考えれば、誰でも間違いを犯すことなく評価できる形式的なものを作らざるを得ないだろう。僕も教職経験者なので、現場の苦労はよくわかっている。教育の現場は理論だけでは語れない。それを理論しか知らないセンセイがた(「先生がた」ではない)がいろいろと理想論をぶち上げるもんだから、現場は混乱するし、生徒は追い込まれる。そんな状況で教育が上手くいくわけがないことは、素人目にも明らかだろう。

 だいぶ前に学校の教科書がB版からA版に変わった時もそうだった。変更の理由は「世界基準に合わせるため」。大人の理屈でランドセルが一回り大きく、重くなり、小学校の1年生にとっては大荷物となった。後ろから見ると、まるでランドセルが歩いているようだ。教師時代に中学生のリュックを何度か持ったことがあるが、これも信じられない重さだ。今の子どもにどれだけ腰痛持ちがいるか、知ってます?文科省。最近のランドセルのCMを見ても、お兄ちゃんが「たくさん入るのを選んだ方が良いよ。」違う!問題はそこじゃない。この期に及んで何を言ってるんだ。 

 教育の無償化だって矛盾している。義務教育では授業料や教科書はもともと無償だ。だが副教材というものがある。問題集や資料集のことだ。一括購入して学校が集金する。しかも学校によって使用するものが異なるので、一律に無償化というわけにはいかない。さらに学習塾のこともある。今の状況では、結局多額の出費は避けられないのだ。

 文科省が教職員志望者を増やすために、教師のやりがいなどを書いてもらおうと、ネット上に「教師のバトン」というページを開設した。しかし書き込まれた内容は苦労話や苦言ばかりで、現場のブラックぶりが明らかになっただけだった。教育の総本山である文科省が、現場の状況や、そこで働く教師の心情を理解できないのだから、上手くいくわけがない。子どもの心情を理解しようなんて、夢のまた夢だ。

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 都市伝説の誕生?

 NHKの「アナザストーリー」というドキュメンタリー番組で、「口裂け女」を取り上げたことがある。先日、その再放送を見た。

 口裂け女といえば、1970年代末、岐阜県で語られるようになった怪異譚だ。当初、それは地域的な噂話に過ぎなかったが、時間の経過とともに全国区の都市伝説へと成長。様々なエピソードが付け加えられ、地域によってバリエーションも生まれた。番組によれば、その過程で大きな推進力となったのが、塾などの子どものコミュニティー、もう一つがラジオの深夜放送だという。

 ネットが無かった当時、ラジオの深夜放送は若者が自分を主張する唯一の場だった。はがきによる投稿には、恋の悩みや社会に対する怒りに加えて、楽しいエピソードや自作の小咄までもが含まれていた。そしてそこには、口裂け女についての情報も数多く寄せられた。

 言うまでもなく、噂話というものは一種の伝言ゲームみたいなもので、伝わる過程で変化し、省略されたり、逆に誇張されたりする。さらに語り手には、より面白く興味深い話をしようとする心理が働くらしく、例えば最初の定型化した物語に「いや、オレはこんな話も聞いたぞ」といった尾ひれが付く。始めは個人の憶測だったものが時間とともに物語に取り込まれ、定説化することもある。こうしたことがラジオの深夜放送を介して起こっていた節がある、というのだ。さらに興味深いことに、もともと包丁(あるいは鋏)だった兇器が平家の落人(おちうど)伝説のある地域では日本刀に、鬼婆伝説のある地域では鉈(なた)に変化するなど、地域色も大いに影響しているそうだ。参考までに言うと、そもそも初期の口裂け女はマスクをしていなかった。「美容整形手術の失敗が原因」という要素も、大分後になって付け加えられたものだ。 

 もう一つ、こうした噂話の特徴として、話が全国に広がるにつれ、その出所の特定が困難になっていくことが多い。「○○から聞いた話」から「ΔΔが知り合いから聞いた話」、さらに「そういう話があるらしい」となり、物語が一人歩きするようになるのだ。こうしてオリジナルのイメージが曖昧になり、多くのバリエーションが生まれることになる。そこで一つ気付いた。これは、今問題になっているネット上のデマとよく似ている。

 政府が推奨しているコロナワクチンの接種。ネットではその副反応として、スプーンが身体に吸い付くようになるとか、不妊症になるとか、果てはナノチップが入っていて、個人情報を盗まれるなどというデマがまことしやかに囁かれている。逆にそういったデマを集めて紹介しているブログもあるから目を通してみるといい。面白いよ。 

 何しろ口裂け女にしてもワクチンにしても、例えば口裂け女は時速100キロで走り、日本刀と鉈と包丁を地域によって使い分け、赤いドレス(血が目立たないように)や白い着物(血が目立つように)を着ていて、姉(妹)がいる。それどころか、実は三姉妹。ニンニクが好きで嫌い、べっこう飴が好きで嫌い。金平糖は嫌い。ポマードの匂いも嫌い。美容整形手術の失敗によって口が裂けたが、韓国では整形し直すと怒りが収まる。で、実はCIAの心理実験でした。よし、だんだんはっきりしてきたぞ(そんな馬鹿な)。あるいは、コロナワクチンを打つと不妊症になり、遺伝子情報が書き換えられる。ナノチップが入っていて情報を盗まれ、スプーンやフォークが身体に吸い付くようになる。いやいや、くっつくのは磁石だよ。接種から5年後に死亡する。5G接続が容易になり(それは便利)、マインドコントロールされる。5Gが普及する2021年7月に死亡する(5年後じゃなかった? 7月、もう過ぎてるよ?)。孫の代で不妊症を発症する(どうやって検証したんだろうなあ)。いくら何でもこれら全てが真実だなんてあり得ないし、矛盾も多い。言った本人は「我こそが真実を語っている」と主張するだろうが、全員集めて討論させたらどんな結論が出るか、興味津津だ。是非ともやらせてみたい。

 番組では、当時の小学生に口裂け女がいると思うかを問う場面があって、3人のうち2人が「いないと思う」と答えていた。一方ネットでは今年、ワクチンを接種した大の大人が、自分の腕にスプーンをくっつけて「ほら、ほらあ!」みたいな顔をして動画をUP。マジシャンにでもなった方が良いよ。子どものほうがよっぽど冷静。問題なのは、深夜のラジオ番組で放送されたはがきの内容と違って、ネット上の投稿は文章や画像として長期間残るということだ。つまり、より多くの人々の目に触れる。そうなればこのご時世、妄信する人の数はラジオの比ではないだろう。ただ、こうしてみるとコロナワクチンに関するデマは、詰まるところ都市伝説の域を出ない。ということは・・・そうか、つまり口裂け女が目の前に現れて、「コロナワクチンは接種しちゃダメよ?」と言ったら、接種を止めれば良いということだな。

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 昔はみんな旅に出た

 愛車が車検で、代車に乗っていた時のこと。その車はカーオーディオが壊れていてラジオしか聴けなかったので、仕方なくつけっぱなしで乗っていたのだが、ある時職場からの帰り道でえらく懐かしい感じの曲が流れてきた。大昔のフォークデュオ、シモンズのような歌声、そして曲調。でも初めて聴く曲だ。この曲欲しい!曲が終われば何らかのアナウンスがあるだろう。耳をそばだてて聞いていると、歌っているのは「チューインガム」というデュオで、曲名は「風と落ち葉と旅人」と紹介された。知らない。チューインガム?なんだそれ。帰宅してすぐ、ネット検索。あった。1972年デビュー。なんだって!13歳と11歳の姉妹デュオ?これはびっくり。でもなかなかいいぞ。即アマゾンで購入。

 「風と落ち葉と旅人」。昔の歌では、若者はよく旅に出たもんだ。自分探しの旅、夢を叶えるための旅、出会いを求めての旅。当てがあったり無かったり、得るものもあれば失うものもある。ここで言う「旅」には、今の自分が置かれている境地を離れて新しい世界を目指す、といった抽象的な意味も含まれている。例えば上条恒彦の「誰かが風の中で」は人生に傷つき、疲れ果てながらも、自分をどこかで待っていてくれる人を目指す。「出発(たびだち)の歌」では、自分の中で何かが失われたことによって始まる旅を歌っている。もっと日常的な例を挙げると、「風」の「君と歩いた青春」は二人で上京したものの、女の子は夢破れて故郷に帰ってしまう歌。「なごり雪(もともとは『風』の曲)」も似たようなシチュエーションだ。太田裕美の「木綿のハンカチーフ」では男の子が都会に出て、その生活に魅了されて戻れなくなり、「ひぐらし」では若いカップルが当てのないバスの旅。「チューリップ」にも「心の旅」という名曲がある。しかもほとんどの場合鉄道が使われているから、駅は旅の始まりや終わり、延(ひ)いては別れを象徴する特別な場所だった。そもそも当時の若者は貧乏で、もちろん車なんて持てなかった。「かぐや姫」の「神田川」なんて、銭湯だもの。それも「スーパー銭湯」とかじゃないよ、横町の風呂屋。そんなだからこそ、支え合ったり、優しさを育んだりできたんだろうなあ。

 今では何でも簡単に手に入るから(というより、簡単に手に入るもので間に合わせてしまうから)何かを見つけるために旅に出るような面倒なことは誰もしない。グローバル化とインターネットの普及によって、その必要性も感じない。でも本当にそれで良いのだろうか。これはもちろん観念的な意味だけど、実際の旅行にしても、昔は幹線道路の渋滞を避けようと地図を片手に抜け道をさがしながら走っていたら、なんか良い感じの喫茶店(絶滅危惧種)を見つけましたぜ、なんてことがよくあったもんだ。それが今では高速でひとっ走り、速いことは速いが、どこまで行っても単調な風景で、サービスエリアもみんなで共有。何だか面白くない。

 最近、新たな自分探しの旅と言えなくもないものが話題になっている。ぼっちキャンプ。蛇口あり、隣接するスーパーあり、下手をするとベッドまであるという訳のわからないキャンプが流行る一方で、アンチテーゼのように出現し、ブームになりつつあるという。たき火の炎を見つめながら、一人でゆったりと過ごす時間が良いのだそうだ。これはこれでアリだと思うが、どちらかというと「贅沢な時間」であって、昔のような切実さは感じられない。まあ、時代の流れとはそういうものだろう。だが、あの「旅に憧れた時代」があったために、僕の人生が充実しているという実感はある。その一点において、今の若い人たちは豊かとは言えないかも知れない。