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 もうちょっと書きたい。

 土浦市について書いた時に、書き切れなかったことをもう少し書いておく。

 前に僕は、土浦という町に強い思い入れがある、と書いた。この思い入れとは、「かつて慣れ親しんだ場所に対する郷愁」といった類いのもので、例えば土浦の市史や名所・旧跡に興味があるとか、そういったことではない。あくまでも個人的なもので、例えば正月早々の記事に書いた、子供の頃から通っているM模型店や、これも以前に言及した、その昔屋台のおでん屋が出没した亀城公園、チャーハンが美味しいT飯店など、当時の生活と密接に結びついた場所が対象だ。華やかなりしころの土浦の、そういった場所について書く。

 昭和40年頃の庶民にとって、デパートでの買い物は一大イベントで、家族そろって出かけ、買い物の後は大食堂でちょっと贅沢な食事をして帰るのがお決まりのパターンだった。土浦にあった霞百貨店、後の京成百貨店は典型的なデパートで、入り口正面には踊り場から左右に分かれる吹き抜けの大階段があり、他とは一線を画する高級な商品を取り揃えていた。クリスマスが近づくと、店内やショーウインドウはそれらしく装飾され、食品売り場にはローストチキンやローストビーフ、クリスマスケーキなどの「ご馳走」が並んだ。まだ現在のような大型スーパーやコンビニがなかった時代で、この手の「ご馳走」が買えるのはデパートの食品売り場ぐらいのものだった。

 当時の駅前には県内有数のバスターミナルがあり、こうした特別な時期には近隣の市町村からも多くの人が押し寄せた。市内に5軒あったデパート(最盛期には大小合わせて7軒!)や、それらをつなぐアーケードは買い物をする客でごった返し、その賑わいは手をつないでいないと子供があっという間に迷子になるほどだった。

 京成百貨店のすぐ近くには土浦セントラルという映画館があって、子供の頃は斜向かいのパン屋であんパンと牛乳(瓶入りだぜ)を買って持ち込み、それを食べながら映画を見るのが常だった。たばこを吹かしながら鑑賞する人もいて、映画が終わると通路には吸い殻がたくさん落ちていた。トイレからはアンモニア臭が漂ってきたけれど、「映画館の匂い」として認知されていて、文句を言う人などいなかったように思う。この映画館はリニューアルされて今もあるそうだ。

 高校生になると、駅前にある西友のWALK館を利用することが多くなった。若者をターゲットにした新しい経営スタイルで、衣料品の他に大きな書店やレコードショップ、模型店などのテナントが入っていた。開店は1982年。今思えば、現在のショッピングモールに近いカジュアルな雰囲気があった。通学に土浦駅からバスを利用する友人が多かったので、学校帰りによく立ち寄った。休日には兄と二人で出かけ、店舗内にある書店や模型店に足を運んだものだ。この店舗は京成百貨店が1989年に閉店した後も10年近く営業していた。

 長いこと駅舎の正面にあったつかさデパートは、2階建ての観光みやげや特産品を扱う店だ。確かに店内は広いが、デパートとは名ばかりで(だから先の5軒には含まれていない)、売り場は1階のみ。2階は全て食堂になっていたので、つかさ大食堂と呼ぶ人も多かった。それなりに利用客もいたようだが、僕は一度も入ったことが無い。昭和40年代にして、すでに古くさい佇まいの建物で、ネットの土浦市に関わる記事にもあるように、四六時中軍歌を流していた。これは土浦に海軍航空隊(予科練)があったことと関係があるのだろう。誰も書いていないようだが、クリスマスの時期になるとビリー・ヴォーン楽団の「ジングル・ベル」や「ファースト・ノエル」を流していたのを、今でもよく憶えている。

 旧市役所の庁舎が今も残る富士塚山(というか高台?)も忘れがたい場所の一つだ。小学校の写生会で訪れたり、夏休みのラジオ体操の会場になったりもした。庁舎と駐車場のある頂上は見晴らしの良い場所で、遠くに筑波山や霞ヶ浦を望むことができた。少し前までは駐車場まで行けたのだが、最近ではたまにロケ地になったりすることが理由なのか、その独特な建物の保全のために敷地への立ち入りが禁止(封鎖)されてしまったのが何とも残念だ。

 他にも古い大病院にありがちな、おどろおどろしい佇まいの旧国立病院(もとは海軍病院。現霞ヶ浦医療センター)であるとか、おやじギャグ感満載のレコード店「レコー堂」であるとか、SMマガジンをSFマガジンと間違えて手に取り、過激なグラビアに動揺した伊沼書店であるとか、そういった場所が今でも鮮明に記憶に残っている。だがそのほとんどが、今はもうなくなってしまった。

 国土地理院のHPで土浦市の航空写真を調べていた時に、ふと気付いたことがある。写真の年代が新しくなるにつれて、道路がはっきり見えるようになっていく。人家や商店がなくなった更地に駐車場が作られ、建物によって道が隠されたり、道に建物の影が落ちて見えにくかったりする事が少なくなったからだ。

 土浦市が衰退した理由の一つは、市内に駐車場が決定的に足りず、車社会の到来に商都としての対応ができなかった事だった。あれから40年。店が消え、人家も少なくなったかつての中心街に、今になって駐車場が幅をきかせている。何とも皮肉な話ではないか。

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 一つ明かす。それは土浦市です。

 これまで自身の個人情報は極力伏せてきたが、いろいろと不自由になってきたので一つ明かす。僕の実家は茨城県の土浦市にある。

 年賀状の返信に変えて、古い友人であるSから写真展と写真集の案内が届いた。彼は高校の同級生で、いつぞやどこかで触れた「生徒会会長で文芸部部長で軽音のメンバー」だった男だ。今も土浦市に住んでいて、映像ディレクターをしているそうだ。その彼が「平成土浦百景」という写真集を出したというので購入してみた。

 僕は二十歳を過ぎるまで暮らしていた土浦という街に強い思い入れがある。この街(あえて街と記す)は霞ヶ浦の湖畔にあり、桜川という1級河川の流域でもあって、水際から高台へと続く複雑な地形が独特な風景を作り出している。また、かつては城下町(土浦城、通称亀〔き〕城)だったこともあり、幸いなことに戦災も免れたので、入り組んだ町並みのあちこちに歴史的建築物が点在し、市街地を少し離れると、今でも昭和以前の時代を彷彿とさせる風景が残っている。

 一時は商都として栄えていたが、筑波研究学園都市の完成後、1985年の科学万博を機に直通の高架道路が建設されると、折からのモータリゼーションの普及と相まって、商業の中心がつくば市や郊外の大型店舗に移っていった。その結果、駐車場の少なかった市街地では、5軒あったデパートが相次いで撤退。駅から続く目抜き通りもシャッターが降りたままの店が目立つようになり、時を経た今では人影もまばらな寂れた通りになっている。一方郊外では、現在も広い駐車場をもつ大型店舗の進出が続いていて、市全体としては賑わいを取り戻しつつあるという。だが昔を知るものにとって、慣れ親しんだ商店街が廃れていく様を目の当たりにするのは、やはり寂しいものがあった。

 Sの写真集は手作り感のあるこぢんまりとした体裁のものだが、その内容は充実していて、よくぞこれだけの場所に足を運んだものだと感心させられる労作だった。さらに一般人なら見落としてしまいそうな撮影ポイントまで具(つぶさ)に取り上げられていて驚かされた。例えば桜川の支流に架かる小さな鉄橋など、実はその昔、僕も絵に描いたことがあるのでよく憶えているのだが、当時は幹線道路からは一切視認できない隔絶された場所で、周囲に人家はなく、数日にわたって絵筆を走らせている間、線路の保守要員以外の一般人に出会ったことは一度もなかった(※)。駅東口の開発によって人目に触れるようにはなったが、今も部分的に樹木に隠されていて、それとは気付きにくい場所だ。それから、Sが「巨木のある小径」と記述した薄暗い坂道。この坂には俗称があって、その名も「くらやみ坂」という。小山を切り通して作られたため、道の両側はむき出しの土の壁で、頭上には巨木の枝葉が生い茂り、日中も陽が差すことはほとんどない。だがそんな「くらやみ坂」にも、以前は道の途中に一カ所だけ、建物や木々の合間を縫うようにして西日が差し込む場所があり、夕日に染まる土の壁と木陰のコントラストが美しかった。今はどうなっているかわからないが、そんな光景も、彼の写真集に出会わなければ生涯思い出すことはなかっただろう。

 「平成土浦百景」を見返しているうちに、改めて今の土浦を撮り歩いてみようかな、という気持ちが頭を擡(もた)げてきた。長い月日が過ぎたあとなればこそ、未だに訪れたことのない名所や、昔と変わらない風景を探し歩くのも一興だろう。もう少し暖かくなったら、具体的に計画を立ててみようと思う。

※ ちょっと探したら出てきた。なんて物持ちがいいんだ、オレ。高校3年の頃の作品で、晩夏の午後の風景だったと思う。今見ると力づくで描いている感じだ。画面に上手く収まるように、橋桁を実際の鉄橋よりも若干短く描いている。現在は画面の手前(当時は空き地だった)と、奥に見える鉄橋の向こうにも家が建ち並んでいる。

付記 ふと思い立って、「くらやみ坂」をストリートビューで確認してみたところ、なんと木々が伐採されて格段に明るい道になっていた。驚くことにYoutubeにも動画があって、やはり木々はすでに伐採されていた。おそらく防犯上の問題だろう。

 この坂を登り切る直前で右に折れると、こちらは今でも恐ろしげな人気のない小径が続く。その先には高校野球で有名な土浦日大高校があり、コメントによれば、「くらやみ坂」は生徒たちにとって、土浦駅方面に向かう近道になるので、生徒指導のおりに「注意を要する道」「通ってはいけない道」としてよく話題に上るらしい。つまり日大高校出身者の間では有名な場所だったわけだ。

 ところでストリートビューの日付は2022年7月、Youtubeの動画は2020年1月。「平成土浦百景」は2017年発行だから、Sがこの場所を撮影したのはおそらくその数年前あたりか。その頃にはまだその名にふさわしい面影があったようだが、現在の様子からは「くらやみ」という文言は逆立ちしても出てこないだろう。「くらやみ坂」の名は、文字通り歴史の闇の中に消えていくのだろうか。それとも道の俗称として存続するのかな。