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 まだ使える

 最近昭和が何かと話題になる。昭和という時代に憧れる若い世代の話もよく耳にする。なぜだろう。

 昭和はある意味、今よりも豊かな時代だった。優れた製品がどんどん開発され、「メイド・イン・ジャパン」は高品質の代名詞となった。こういった製品はそれなりに高価で、かといって手が届かないほどではなく、手に入れば大きな満足感があった。だから当然大事に扱う。頑丈で、たとえ壊れたとしても当たり前のように修理がきいたから、長く使うし、愛着もわく。愛着のあるものに囲まれて過ごす人生は心豊かである、というのは、これまで生きてきて実感するところだ。今はどうか。いや、今に限定しなくても、家電量販店の「修理するより買い換えた方が早い、安い」という常套句はいつの間にか当たり前になった。壊れたものはすぐ買い換える。修理の依頼は可能だが、割高で時間もかかるから、一般的ではなくなった。これでは愛着も何もあったもんじゃない。さらに今の製品が長期にわたって使える品質かどうか、という問題もある。要するに作る側の事情だ。

 ニコンといえば、日本を代表するカメラメーカーの一つであることは、誰もが知るところだろう。だが今や、その製品のほとんどは「メイド・イン・タイランド」。10年ほど前、現在の愛機であるニコンDfを購入した時に店員が言った「このカメラは国内生産ですから信頼できます」という台詞を今でも思い出す。タイや中国の技術力にケチをつけるわけではないが、自国、あるいは自社の名に恥じない製品を作ろうとする精神性においては、差が生じるのは必至だろう。つまり「メイド・イン・ジャパン」は、一般的な製品においてはもはや神話でしかない、ということだ。加えて最近当たり前になってきたプラスチック・ボディのカメラなんて、昭和生まれの僕には到底納得できない。実際にその手のカメラを壊したことがあるが、金属ボディだったらあり得ないような状況での破損だった。確かに生産性は良いようだが、強度や精度、耐熱性といった点ではまだまだ金属製ボディにはかなわない。熱や経年劣化による変形の問題もあって、カメラのような精密機械には向かない、という話も聞く。新製品の開発スピードと相まって、買い換えが前提であるとしか思えない。

 今になれば一つのものを長く使い続けることの楽しさがよくわかる。確かに修理に出している間は不便を余儀なくされるが、それと引き換えにちょっとした満足感や心の豊かさを手に入れることができるような気がする。30年使い続けている腕時計、中学生の時に買ってもらった一眼レフ、何度も修理に出した40年前のジッポ・ライター・・・。これらの品々は人生をともにする相棒であるとともに、記憶の蓄積でもある。修理やメンテナンスに対応してくれるメーカーの存在もありがたい。彼らなしにはこの充実感はあり得ない。だが修理に携わる人材も今では大分少なくなったと聞く。

 誰かがこう言ったとする。「令和に買い換えた方が早いし、便利ですよ。」だが僕は慣れ親しんだ昭和という時代を修理しながら、今後も可能な限り使い続けるだろう。そうすることによって、人の心はもっと豊かになるかもしれない、なんて最近よく思うのだ。